失敗の歴史を総括する小説
「それでいいのか。南ベトナムといえば、フィリピンに近い。自分たちの権益を脅かすことになるのではないか。そうなるとお得意の孤立主義を通してはいられなくなるだろう」
フィリピンは、アメリカが一九世紀末スペインから獲得したアジアにおける植民地だ。
「そこが重要なポイントさ。今、日本に北に進んでソ連と戦って貰っては我々としては困るのだよ。ソ連は共産主義国だが、今は、ナチスと戦っている。そのソ連が、西と東で挟み撃ちに合うとなると、それはナチスを利することになる。それだけはあってはならない。早い内にナチスの勢力を弱めて貰いたい。ソ連は広大な大陸を持つ、その上、寒くなればあちらの方が有利だ。今は劣勢だが、いずれは形勢逆転となるだろう。そうなれば、日本の軍部も親独などと言ってはおられず、熱を冷ましてくれるだろう。つまりソ連には対独戦線に専念して貰いたいということだ。それが自ずと我々の思惑に結びつくと言うことだ」
チャーリーの淡々とした口振りに疑う余地はなかったが、それでも龍一には府に落ちない感じがしてならなかった。だが、彼の言うことは理にかなっている。ドイツがヨーロッパで劣勢に転じれば、日本は味方を失う。ベトナムを確保しても、引き下がらざる得なくなる。また、疲弊している中国戦線からもだ。ならば、それを信じて実行してみようと龍一は考えた。
定例の朝飯会で、龍一は、常にできるだけ最初に気勢を張って発言することにした。
「皆さん、シベリアの冬というのをご存知でしょうか。俗に冬将軍と呼ばれる極寒の寒さです。北海道さえも、暖かく感じるほどです。盟友ドイツを助ける意味でも、ソ連を討つべきだという意見もありますが、ここは、暖かい南の方へ進みましょう。何ら血を流すことなく、ヴィシー政権の承認を得て兵を進めていき錫などの資源を確保しましょう。また、現地の人々にも歓迎を受けることになるでしょう。同じアジア人である我々をベトナムの人々は、アジア解放の救い主として迎えてくれることでしょう」
龍一の自信満々な口調に会議室は圧倒されてしまった。龍一は敢えてそれを狙い、最初に立ち上がり気勢を上げたのだ。これは、日本において会議でのイニシアティブ(主導権)を取る必須技だ。日本では、人前で堂々と意見を言うことを躊躇する傾向がある。だから、どんな人々の集まりでも、静かな雰囲気で、お互い当たり障りのない話題に終止しがちだ。これは、国家の戦略会議でさえ見られてしまう日本特有の傾向だ。
日本人は他と対立してまでもディベートをするのを嫌がる。欧米人同士では、会議はしばしば白熱しけんか腰になる。だが、意見の相違はよくあることとお互い尊重しあい、会議後の人間関係には響かないものだ。だからこそ、誰も会議での発言には遠慮がない。日本では、明らかにそれが違った。
言い方を変えると、最初に押しの強い発言をした者が勝ちなのである。そうなっていくと流れができてしまい、その流れに逆らおうという反対意見は出にくくなる。
龍一の発言の後は、常に静寂が会議室を包み込む。どんどん思惑通り、会議は流れていった。
近衛首相は、会議の記録に目を通しながら、こう言った。
「君の意見は理解できるのだが、心配なのはアメリカの出方だ。どうなんだ、アメリカが干渉しないという確信はあるのかね」
心配そうな首相を見ながら龍一は、自信あり気に答えた。
「ええ、もちろんです。そのことは大使館に何度も足を運び裏を取りました。アメリカは、睨みをきらしていても、まだ孤立主義に徹する構えです。ご安心下さい。何の問題もなく、実行可能です」
何度も近衛氏を説得し、ついには手玉に取った。
一九四一年七月 日本は、フランス・ヴィシー政権の承認を得、フランス領南部ベトナムへの進軍を発表した。
翌月、アメリカ合衆国政府は、アメリカにおける日本資産の凍結と日本への石油輸出禁止を経済制裁として発動した。
龍一は、チャーリーに裏切られたことを悟った。
アメリカ大使館の書記官室で葉巻をふかふか吸うチャーリーと顔を突き合わせ龍一は大声で怒鳴りちらした。
「石油の禁輸を発動させられもうお終いだ。軍は戦争に打って出るぞ。アメリカは戦争を望んでいるのか」
ふ、ふ、とチャーリーが、笑みを浮かべ龍一を見つめ言った。
「もし戦争になったら、日本はアメリカに勝てるとでも思うかね?」
龍一は、それは愚問だと思った。勝てる見込みなど全くない。経済力、軍事力などはるかに勝る。アメリカには個人でさえ日本を丸ごと変えるような大金持ちがいるといっていい。ましてや日本は、石油をこれ以上使えない。今備蓄している分だけでも、せいぜい二年保てばいいところだ。
「じゃあ、ルーズベルトは戦争を望んでいるのか。孤立主義を貫くつもりだったのでは。日本がアジアで君の国の権益に介することさえなければ干渉するつもりはなかったのだろう。だが、南ベトナムまで介入させて、経済制裁の口実を作ったというのか」
龍一がそう言うと、
「それをアメリカ以外の国々が望んでいるかもな。ナチスにやられ放しのヨーロッパ人と日本軍に苦しめられ続けている中国人などがね。アメリカが戦争に介入してくれないのにしびれを切らしている。アメリカ人も、野蛮なドイツ人や日本人を懲らしめるべきだと世論が高まっている」
とチャーリーは淡々と応える。
「戦争になれば、経済の復興に役立つよな」
と龍一が言うと
「ああ、なかなかニューディールの公共事業政策だけでは経済は上向かないからな。軍需産業にとっても好都合だ。失業問題も解決できる」
とチャーリー。
「最初から、そのつもりで私に近付き、私を利用したのだな。何か企んでいると思ったが結局は戦争屋だったのか」
と龍一。分かりきっていることを口走った。
「合衆国の国益を守ることが私の任務だ。ただな、分かっているだろうが、我々、アメリカ人は正義感を持って生きている。あくどい奴らが、世界の平和を乱すことに黙ってはいられないんだよ。君たちも自分たちがどんなことをしているか、そのことが外からどう見られているのかよく考えておくんだな」
これから起こる戦争は正義のための戦いとなるのだろうか。チャーリーの言葉は龍一にそう考えさせた。
一九四一年(昭和十六年)九月
皇居において、天皇と近衛首相や陸海軍大臣を含めた閣僚が国策を話し合う「御前会議」が開かれた。
その結果、十月までに米国との交渉で、いい道筋が示されなければ、開戦に踏み切るという結論が出た。
近衛総理は、必死に事態の打開を探った。ルーズベルト大統領と直接の首脳会談を行う申し出を米政府に打電した。
だが、アメリカからの回答はノーであった。会談をするのであれば、日本軍がベトナム及び中国から撤兵すると確約をすることが最低条件だと打診した。当然、無理な要求で、そんなことが無理であることを百も承知での打診であった。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし