失敗の歴史を総括する小説
国家の機密情報が飛び交うこの会合で得られる情報を随時、チャーリーに伝えるのが役割だった。機密文書はわざわざ自宅に持ち帰りタイプで英訳したものを渡した。また、ドイツ・イタリアとの軍事同盟締結交渉の動向もくまなく伝えた。
龍一はチャーリーと会うための大使館訪問を表向き、補佐としての外交と情報収集の活動と見せていた。官邸からすれば、アメリカ大使館で、広い意味での諜報活動でもするかのように見せていたが、実のところ、それは逆であり、龍一は自らが二重スパイになったかのような気分であった。
また、海軍省、陸軍省などにも出向き、中国大陸での軍部の動向をできる限り探った。特に重要なのは、軍部が攻撃対象とするインドやビルマを経由して輸送されるアメリカからの支援物資補給ルートの攻撃計画だ。蒋介石を支援する意味から「援蒋ルート」と呼ばれる大陸内の補給路を絶つことが、軍部にとっては最大の課題なのである。この情報をできる限り探り、それをチャーリーに報告し、それを中国側に伝え、先手を打たせる方策を立てさせるためだ。
自らのやっていることが、極刑に値する反逆行為であることは百も承知である。祖国を裏切っている罪深さも感じていたが、これしか自分にできることはないと考えた。
自分の提供してきた情報が、どのように役立っているか知る由もなかった。そのことはチャーリーに任せ自らはするべきことをしてその結果に対しては何も考えないようにした。
状況が良くなっていくことを望むが、自分と日本の運命など分かりやしなかった。
翌年、一九四〇年、状況はさらに悪化の一途を辿っていく。反政府的な言論を展開した大学の教授などの知識人が、どんどん逮捕されていく事件が起こる。反戦を掲げる雑誌などは発行停止処分に。言論界は、ほとんど自由を失っていた。また、賃金や物価の統制、勤労奉仕の参加義務などで生活も苦しくなっていく一方だ。街には、「ぜいたくは敵だ」というスローガンを書いた看板が見られる。大きな声は上げられないものの、国民の中には不満が出ていた。
中国での戦線の死者数は六万人に及び、これ以上の軍部の暴走を危ぶみ、政府に事態の打開を求める声も上がっていた。しかし、国会議員でさえ、軍部には逆らえない状況になるほど事態は硬直度を増していった。
一九四〇年二月、その象徴的な出来事が起こった。言論の最高の府と言われる国会を直撃する弾圧事件が起こったのだ。それは、議会政治の死を意味するほどの事件であった。
巻き込まれたのは、民政党の斉藤隆夫衆議院議員であった。龍一も、長年、親交のある人物であった。六十を超える老齢の紳士だが、大正時代から衆議院議員として活動し、あの普通選挙法の立案者でもあった。アメリカで政治学を学び、議会による民主政治を強く推進する立場の人であった。その意味で長年に渡って軍部の政治介入を批判してきた。
日中との戦争に異議を唱え、国家総動員法を議会の権限を無視し、軍部と行政に白紙委任状を渡すものだと批判した、少数派とはなったが大変リベラルな立場の政治家である。
ことは、国会の政府への質問演説で中国大陸での戦線をどう処理するかを問いただした内容であった。
「国民に多大な犠牲を払いながら、政府は何の説明責任を果たそうとしない。この戦争の行方はどうなっていくのか知りたがっている。聖戦の名の元にこれ以上、国家百年の体計を誤ることがあったなら政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」
という発言であった。その途端、議場では怒号が起き、斉藤議員は、一斉に非難の対象となった。その後、民政党は斉藤氏を離党させた。それだけでは収まりがつかず、ついには懲罰委員会にかけられ、圧倒的多数の賛成で議員の身分を剥奪される「除名処分」を受けることとなった。
一九四〇年五月、ドイツは、フランス、ベルギー、オランダに侵攻、あっという間に占領してしまう。フランスでは、政府が首都パリを放棄し、代わりにドイツの傀儡としてヴィシー政権が樹立された。
一九四〇年九月、日本とナチス率いるドイツ帝国とファシスト党党首ムッソリーニ率いるイタリアとの三国間で、三国軍事同盟が締結された。
この条約の主要要項は、次のようなものであった。
第一条 日本国はドイツ国及びイタリヤ国の欧州における新秩序建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重する。
第二条 ドイツ国及びイタリヤ国は、日本国の大東亜における新秩序建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重する。
第三条 日本国・ドイツ国及びイタリヤ国は、前記の方針に基づく努力に付き相互に協力すべき事を約する。更に三締結国中何れか一国が、現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたる時は、三国はあらゆる政治的・経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約する。
国際的に孤立を深めるファシズム国家三国の提携であった。日本はこの期を見て、ヴィシー政権の承認により、フランス領である北ベトナムに進出、占領する。これにより、アメリカ・イギリスとの関係はさらに悪化していった。
翌月、一九四〇年十月、日本の政治と軍部が見事に一体化される体制が確立された。
民政党や政友会などの政党は全て解体され「大政翼賛会」という軍部の命令に従うがための軍部傀儡組織に吸収一本化。議会政治は機能しなくなり崩壊することとなった。
一九四一年六月、ドイツが電撃的にソ連への侵攻を開始した。ナチス・ドイツがソ連への侵攻を開始したと聞いても、ヒトラーの著書『我が闘争』を読んだことのある者であれば驚くことではない。龍一は、ドイツ語の原書で読んだ。
アドルフ・ヒトラーは著書の中でドイツ人がより広い生存圏を必要とし、それが東方へと広がるべきと書いていたからである。ヒトラーは、ユダヤ人やポーランド人と同等にロシア人をも劣等民族と見なし、彼らを追放し、広大な植民地を設ける計画であった。ちなみにヒトラーは、日本人も劣等民族であると同書の中で語っている。その部分は、なぜか和訳版では削除されていた箇所だ。
ナチス・ドイツとソ連は、ポーランド侵攻の直前にモロトフ=リッベントロップ協定を締結して友好関係にあった。それはドイツとソ連が東ヨーロッパの分割支配を合意した相互安全保障条約であった。しかし、ドイツにとり条約は単に一時的な保険に過ぎなかった。
ソ連共産党指導者のスターリンは、ヒトラーを甘く見ていたことが災いしてか、一挙に奇襲を受け、ドイツの連戦連勝が伝えられた。
ここにきて日本国内では、軍部を中心に満州国を防御拡張するためソ連を討つ「北進論」か、さらなる資源の安定確保と南方での勢力拡大のため南ベトナムへ進出する「南進論」が話し合われていた。
いずれを取るべきか、これが今後の日本にとっての戦略的な命題となっていおり、朝飯会でも、最重要課題として話し合われた。
龍一は、チャーリーにアメリカはどちらを望んでいるのかを訊いた。
「是非とも、南へ進むように仕向けてくれ」
とチャーリーは言った。
龍一は、疑問に思った。アメリカが日本の南ベトナム侵攻を望んでいるのかと。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし