失敗の歴史を総括する小説
「ミスター・グルー、私は絶対、この男に負けませんよ」
とチャーリーは、にたにたしながら龍一に対して言った。
龍一は、心の炎がばっと燃えついた気分となった。絶対に負けられない。
外務大臣が、
「大使どうですかな。もし、私たちが勝てば輸出制限を解くと約束できませんかな」
と冗談ぽく話しかける。大使は、微笑みながらも何も答えない。
コートの上に立った二人、試合は一セットマッチである。先に六ゲームを勝ち抜いた方が勝利である。
まずは龍一がサーブする。ボールは、チャーリーのコートで跳ね上がり、チャーリーが跳ね返す。ネットの上を飛び越したボールを龍一がボレーで打ち付け、相手方に落とす。「フィフティーン・ラブ」
と審判をする大使館員が言った。
龍一は悟った。チャーリーはテニスなどしたことはないと。
試合は、見ている方にとってとても退屈な展開となった。龍一が一方的に責める体制になっていたからだ。二分ほどで一ゲームが終了して、次のゲームも同じ長さ、次もである。
龍一にとっては赤子をあやすような感じであった。それでも手加減はしなかったものの、あまりにも差があり過ぎて勝負が見えている。日本人の招待客でさえも、面白味を感じられず、しらけてしまっている。アメリカ側の過剰なサービスかと思える程だ。
龍一は、チャーリーが、それなりに立ち向かっていることを感じていた。だが、ろくにテニスの経験がないことが災いしているようだ。親睦会と思って甘く見ていたのか。
龍一は周囲がしらける中、容赦せず試合を最後まで精一杯やり遂げた。
試合は十五分ほどで終わった。あっけなく終わったという感じだった。龍一が全六ゲームを取り、楽勝である。チャーリーは一ポイントを取ったのみ。たまたま、龍一がボールをアウトした一回だけだった。それもラインぎりぎりでインと判定しても良かった程、微妙な審判結果によるものだ。
ネット越しに、白々しく握手をして、試合を締めくくった。チャーリーはかなり汗だくになっていた。龍一はすがすがしかった。
今度は、こっちがしてやったぞ、という気分に龍一はなっていた。
二人でコートを出ると、龍一は何気なく話しかけた。周囲の者は、誰も自分たちに関心がなさそうだ。
「驚いたな。あんたが国務省の人間だったとは」
「ほう、何だと思った?」
とチャーリー。少し息が切れている調子だ。「FBIかOSIかと」
「そう思われたとは光栄だな」
チャーリーは笑顔で龍一を見返す。
「私のことを何でも調べているとか言っているが、今度ばかりは調査不足だったな。テニスの腕前もきちんと調べておくんだったな。そして、自分よりもましな対戦相手をぶつけるべきだったな」
と龍一は当てつけのように言う。
「さっきの試合は、あんたの性格を分析する上では格好の材料だった。これで我々の良き仲間になってくれることは間違いない」
「何を言っている。勘違いしないでくれ。私はあんたらの仲間ではない。借りなど作ってはないぞ。思い込みを持ち込まないでくれ」と龍一はつけ込まれまいとした。蒋介石と会えたことを恩とは思ってないぞと言いたかった。
「いや、協力するさ。それも近い内に。君の体を流れる血がそうさせるのさ。私は何もかもお見通しだ。いいな。近々また会おう」
チャーリーは、そう言うと龍一から離れて言った。
また何をほざいている。一体何を企んでいるのか。龍一は警戒心を持ちながらも、気にしないようにすることにした。
翌月、ドイツが隣国ポーランドに侵攻したニュースが駆けめぐった。
ドイツのポーランド侵攻は、電撃的であったが、ある程度予想されたものでもあった。
ナチス政権以後、ドイツは先の大戦で失った領土を取り返す攻勢に出ていた。アウトバーンの建設などで失業問題を解決し、経済を建て直したドイツは、一九三五年ベルサイユ条約で保有を禁じられていた空軍の存在を明らかにする。その後、非武装地帯とされたフランスとの国境地帯、ラインライトに進軍。
一九三八年には隣国オーストリアを併合。同じ年の十月、チェコの元ドイツ領ズデーテン地方を占領。翌年には、チェコ全土を占領した。フランスやイギリスは、国内に問題を抱えていたこともあり、ドイツとの衝突を避け、外交的な解決でことを収めようとしてドイツの横暴を容認していたが、それこそが、ヒットラーにつけ込まれるもととなった。
ドイツは、ポーランド回廊と呼ばれるかつてのドイツ領の返還を要求。ポーランドが要求を拒否したことが、戦争勃発の引き金となった。ついにフランスとイギリスはドイツに宣戦布告をした。
ドイツのポーランド侵攻後、挟み撃つようにソ連が東から侵攻してきた。ドイツは、ポーランド侵攻の一週間前にソ連と不可侵条約を締結しており、これは両国によるポーランド割譲を裏で約束したものであった。ポーランドはわずか一ヶ月あまりで全土をドイツとソ連に分割占領される事態となった。またもや、独立が奪われた。
龍一の体の血が騒いだ。母から流れるポーランド人の血が。独立を願い祖国ポーランドのために闘い、ついには祖国を追われる身にまでなった母の血が。
こともあろうに、その横暴なドイツに日本はさらなる接近を計る方向へと傾いた。
同盟関係をさらに強固なものにするため、本格的な軍事同盟を締結しようという動きが軍部から出回っていた。
ドイツの快進撃が報じられ、それならば、いずれドイツはフランスやイギリス、オランダなどを占領するであろう。そうなった時、東南アジアのそれら列強の植民地はどうなるか。ドイツと軍事同盟を結んでおけばアジアでの勢力拡大に大いに役立つのではないかという意見が出始めた。
アメリカ大使館の一室で龍一は、チャーリーを目の前にして言った。
「私に何ができるんだ?」
もはや龍一には選択の余地はなかった。状況の悪化を食い止めないといけない。もう一つの祖国ポーランドを救わなければ。そして、この祖国日本も。チャーリーを信頼していいのか分からないが、この苦境を脱するにはチャーリーしか頼る男はいなかった。
相変わらず葉巻を吸いながら得意げな顔でチャーリーは言った。
「君の立場で収得できる限りの情報を提供して欲しい。どんな情報を我々が欲しがっているのかよく分かっているだろう」
龍一は、首相の補佐として官邸で月二回開かれる政策研究会に出席していた。この研究会は朝食時に開かれることから「朝飯会」と呼ばれ、政界、財界、学会からの専門家が集まり、今後の国策要綱を練る会合である。
濾溝橋事件、その後の国民政府首都南京陥落、占領地拡大から、もっぱらの議題は、この日中間の戦争をどう収拾するかで、気掛かりとされたのは、中立の立場でありながら中国をあからさまに支援するアメリカとの関係だ。
首相の補佐として、龍一は、中国を制圧し、東亜新秩序構想を実現させる立場として政策を立案する立場であった。しかし、それは龍一にとっては表向きの顔であった。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし