失敗の歴史を総括する小説
近衛内閣により東亜新秩序声明が発表された。
「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず。就中、盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。
惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。
茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す」
つまりは、日本、中国、そして満州国の三国が政治・経済・文化での提携を深めて協調していくことにより国際正義を確立させ、東亜と呼ばれる東アジア地域の安定と発展を目指すという声明である。目指すは大東亜共栄圏の確立である。だが、どう見ても日本の一方的な主張である。その主張を通すために、さらに武力を行使し続け、無実の人々を殺戮していき国際正義を踏みにじっていくのは自明の理だからだ。
官邸で龍一は、近衛総理に問いかけた。
「これでいいのですか。このままいけば、どんなことになっていくのか分かっているのですか」
近衛総理は黙って何も答えてくれなかった。今後は、この東亜新秩序構想を基軸とした外交政策に邁進するしかなくなった。龍一は補佐官の地位に留まることにした。これ以上何もできないが、できる範囲ですべきことをしようと考えた。
一九三九年一月
龍一は、近衛隆文氏が、秘書官を辞めたことを聞き、彼の家に駆けつけた。近衛一家の私邸である荻窪の荻外荘である。
純和式の邸宅を訪ねると、たまたま隆文氏一人しか実家にはいなかった。
縁台に立ち庭を見つめている文隆。外では雪が降っている。龍一は畳の上に正座していた。
「二等兵として従軍することになりました。行き先は満州です」
龍一は衝撃を受けた。なぜだと訊こうとすると、
「父の命令です。軍部からかなり僕のことで批判されていて、何でもアメリカ帰りでリベラル過ぎる傾向があると」
と隆文は重い口振りで話した。
龍一は言った。
「リベラルのどこが悪いんだ。軍部の奴らにどんな政治思想があるというのだ。奴らはリベラルでもなければ、保守でもないじゃないか。単なる精神主義者で、思いのままに行動することこそが善だと考えているに過ぎない。何の信念も戦略もない」
かなり声を荒げた。隆文と自分以外は邸宅にいないことが幸いした。
「決心はついています。僕も近衛家の一員です。当然のことをするまでです」
隆文はそう言い切った。しばらく沈黙が続き、隆文は龍一に問いかけた。
「リベラルって何なんでしょうね。果たして、そんな思想だけで世界を救えるのでしょうか」
龍一は答えにつまった。今まで、自ら考えたことのなかった問いだったからだ。
一九三九年八月
東亜新秩序構想を声明として発表して以来、日米関係は、さらなる悪化の一途を辿っている。六月には日本軍が中国の北京近くにある租界、天津を抗日運動の拠点とみなして封鎖。そのことに対し、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。それによりくず鉄、石油・工作機械などの輸入が制限されるようになった。
日本経済に打撃を与えるのは必至だ。そんんなか、外務大臣から龍一に思わぬお呼び出しがかかった。
それは、アメリカ大使館での日米政府関係者の親睦会としてテニス大会が開かれるので、そこで日本側の代表選手として出席して貰いたいとのことだった。
外務省内にテニスの上手い者がなかなか見つからないため、急遽、官邸の龍一にお声がかかったということだ。何としても、負けられない試合だという。
龍一は、快く引き受けた。最も、テニスには自信がある方ではない。子供の頃からやっていて、神戸の高校時代は庭球部員であったが、けっしてどんな対戦相手でも打ち負かせる程の自信があるわけではなかった。相手側もきっと凄腕を連れてくるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。所詮は親睦会である。考えているのは、これを機会に大使館側と緊密な接触を持ち、今後の動向を探るきっかけとしたいのである。それは外務省も官邸も龍一に望むことであった。
赤坂のアメリカ大使館の芝生にテニスコート一面が設置されていた。ジョゼフ・グルー大使が主催者となり、パーティーは始まった。ワインが配られ、屋外のテーブルにサンドイッチや菓子が並べられている。実に楽しい雰囲気がお膳立てされていた。
龍一は、緊張していた。テニスをする格好に着替え、試合が始まるのを待っていた。対戦相手はどんな奴なのかと少し不安であった。負けるにしてもあまりひどい負け方をしては、この先付き合いがしづらくなるし、官邸や外務省の面子を潰すことになる。まあ、相手もお手柔らかにやってくれるのだろうが。
「レディーズ・アンド・ジェントルマン、お集まり下さい。只今より、本日最大のイベントであります米日政府代表によるテニス試合を開催します」
とグルー大使。その傍らには主賓の外務大臣が立っていた。
招待客の注目が、芝生のテニスコートに集中する。皆、わくわくとした表情となった。 龍一は、白髪のグルー大使に近付く。右手にはラケットを持っている。
「君が、日本代表かね」
とグルー大使。
「初めまして、大使。官邸から来ました。総理補佐官のリュウイチ・シラカワと申します。よろしければリッチーと呼んでください」 龍一は、アメリカ人らしい自己紹介を英語でした。アメリカ人は、知り合った相手をファーストネーム、それも愛称で呼ぶことを好む。
「そうかね、リッチー。こちらこそよろしくところで、我々の選手をここに紹介する」
とグルー大使が手の平でそばに立っている金髪の男を差す。
「彼の名はチャールズ・タウンセンドという。一等書記官として今月から赴任することになった」
そのとたん、龍一は「チャーリー」という言葉を発してしまった。
「やあ、リッチー」とチャーリーは返す。
「おお、さっそく、ファーストネームで呼んでくれるとは、気が合いそうだな」
とグルー大使はにこにこしながら、二人の対戦相手を交互に見ながら言った。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし