失敗の歴史を総括する小説
だが、今度の旅は荷物をそんなに持たず気軽に行きたいと考えた。油絵一枚ぐらいと思うが、額縁に入ったキャンバスのようなかさばるものは何一つ持って行きたくないと考えた。
龍一は、目を食い入るように、まるで初めてこの景色を目に焼き付けるかのように眺めた。
だが、ふとあることに気付いた。丘を下った四、五軒ほど先に、三角屋根のてっぺんに風見鶏をつけた洋館が目に入った。
「風見鶏」父が、死の直前に放った言葉だ。何を意味するのか、全く分からずじまいだ。訳も分からず口走っただけなのかもしれないと思ったが、事業家として名をはせ普段から冷静沈着な父が自らの命を絶つ前に、何の意味のない言葉を放つものか疑問である。
今、視界にある風見鶏のある家は、確かドイツ人が住んでいると聞いたことがある。だが面識はない。龍一もなければ、父の源太郎にもないはずだ。いや、父の交友関係を全て知っているわけじゃないので、もしかしたら、あったのかもしれない。が、しかし、風見鶏のついた家などこの辺では珍しくない。たまたま、この窓からの視界には、そのドイツ人の家だけが見えるが、この洋館の住宅が立ち並ぶ一帯には、他に数軒ほどあるし、神戸市内全体を考えると、もっと多くある。その一軒、一軒をつぶさにあたれというのか、それは不可能だ。
龍一は、「風見鶏」のことを考えるのをやめ、改めて景色を眺めた。椅子に腰掛け何も考えず、景色をぼんやり眺める。
すると、不思議な感覚に襲われた。この景色に何か不審なものを感じざる得なくなった。今までとなんら変わりないのに、何かが大きく変わったような気がしてならない。
龍一は思った。父が死ぬ数日前なら、こんな風には感じなかったはずだ。
龍一は、ひらめいた。「風見鶏」だと。龍一は立ち上がり、部屋を出て階段を駆け下りて応接間に向かった。応接間の壁にかけてある絵を眺めた。数枚の絵から、一枚の絵を食い入るように見た。
ほんのさっきまで眺めていた窓からの景色を描いた絵画だ。額の淵の内側が、そのまま窓の景色を映している。
あることを悟った。不審なのは、窓の景色ではない。窓の景色は画家が描いた半年前も、父が死ぬ数日前も、そして今も何ら変わりない。だが、この絵が変わったのだ。この絵も、窓の景色と同様に、普段飽きるほど目にするため窓の景色とこの絵の印象は、自然と重なり合う。だからこそ、小さな違いが目に付くのだ。
窓の景色には、風見鶏はあるが、この絵にはない。というより今は、なくなっているのだ。源太郎が死ぬ数日前まではあったのに。
龍一は、絵に近づいた。以前、風見鶏のあった箇所が塗りつぶされているのが分かった。黒い風見鶏は、かなたの海と重なり合う。丁度、その海と同じような色で塗りつぶされているのが目にとって分かった。離れたところからは、分からないが、近づくとはっきりと分かる。 誰がこんなことをやったんだと考えた。考えられるのは、一人だけだ。龍一は、額縁を持ち、壁から絵画を取り外した。龍一は、絵を自分の胸元に持ってきた。そして、額をひっくり返した。額の背板を見る。
龍一は背板を外した。中に大きな書類袋が入っていた。
龍一は、封筒を取り出した。恐る恐る袋を開け、中に入っているものを取り出した。写真が一枚と手紙らしき書面が一枚、数枚の紙が重なった束が入っていた。その一枚を手に取り読んだ。父の直筆であることがすぐに分かった。
「リッチーへ
この手紙を読んでいる頃には、私は刑務所にいるか、死んでいるかであろう。いずれにせよ。もうお前に会うことはできない筈だ。だから、この手紙はお前に捧げる最後の語りとなろう。父は追い詰められた。これまで様々な危機を乗り越えてきたが、これ以上の危機はなかった。
私は、鈴木宗ノ介という代議士にアヘンの密輸をしないかと話を持ちかけられた。私は断ったが、鈴木は自らの政治力で密輸に協力しないのならば、私の貿易事業の免許を剥奪すると脅してきた。そこで、私は鈴木の悪事を告発することにした。そして証拠を入手した。同封されているのは鈴木が上海のマフィアに対して書いたアヘン取引の領収書だ。マフィアが鈴木に裏切り行為をさせないための保証として書かせたものだ。もう一つ、鈴木がマフィアの取引相手と対面した時の写真だ。
この二つを公表すれば鈴木の政治生命は絶たれる。だが、鈴木は私がこれら証拠をつかんだことに気付いたようだ。鈴木は、これら証拠を奪うためどんなことでもするだろう。鈴木は警察さえも動かせる。私を拘束し、私の命を奪うことまでもするだろう。それだけでない。お前、リッチーの身だって危険にさらすことも考えられる。父としてそんなことは耐えられない。
もし、私がお前の元から奪われることになったら、これら証拠を使い鈴木をやっつけろ。それでお前の身は守られる。言っておくが警察は信用するでない。鈴木は警察を手中に収めている。お前の賢さを信じている。きっと、なんとかやり抜くだろう。この手紙を見つけられるほどだから、きっと、その方法も見つけ出せるだろう。
最後になるが、お前に言っておきたいことがある。私がいなくなり一人ぼっちとなるが、一人前の男として強く誇りを持って生きてくれ。お前は、上海でずっと育ってきたが、お前はれっきとした日本人だ。父も母も、そう思って育ててきた。これからもずっと、日本人として生きてゆくがいい。この国のためになる人間となれ。どんな苦境に立っても、それだけは忘れるな」
龍一は、目から涙がこぼれていた。これは父の遺書だ。父は、すでに覚悟が出来ていたのだ。そして、息子の自分に危害が加わらないようにと、あのようなことを。
龍一は、心を奮い立たせた。どうすべきか、考え込んだ。写真を見た。頭の禿げた背広を着た男と、二人の中国風の服を着た男が写っている。頭の禿げた男は鈴木宗ノ介で、その他、二人はマフィアであることは間違いない。代議士が、こんな連中と会っていることだけでも異常と言わざる得ない。
そして、もう一つは領収書の束だ。中国語と日本語で手書きによる記載がされている。アヘンを買い付けた日付、量、代価として支払られた額が克明に書かれている。マフィアの中国人らしき者の署名と印鑑、そして、「鈴木宗ノ介」の署名と印鑑だ。
龍一は、これらを全て書類袋の中に戻した。そして、書類袋を腕に抱え家の外に出た。
道に出ると、キセルを吸って座り込んでいる人力車の車夫がいるのが目に付いた。体格のがっしりとした中年の男だ。
龍一は、車夫に近付き言った。
「すまないが、今から急いで大阪まで駆け走ってくれないか」
「大阪まですか、いいですけど、大阪のどこでんすか?」
龍一は、ズボンのポケットから名刺を差し出した。
「ここさ。大阪朝夕新聞社まで一走り行ってくれ。すごく急ぐんだ。何とか昼前には着きたい」
車夫は、名刺を見て社のある場所を確認する。一瞬、目を丸くしたが、すぐにこう言い放った。
「ほな、まかしてくんさい」
龍一は、車の椅子に腰を下ろし乗り込んだ。
「お客さん、気張ってくんさい。行くで」
人力車は、馬に引かれるかのように勢いをつけて走った。龍一は思った。
何とか夕刊までに間に合えばいいのだが。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし