失敗の歴史を総括する小説
「宮台さんって、今は確か編集副局長の人では。最近、昇進したと聞きましたよ」
龍一は、大した驚きもなく聞いた。
「そうか、六年も社にいなかったから、最近のことは何も知らないんだ」
若い記者は、まだいぶかしげに龍一を見ている。疑っているのだろうか。今の龍一には、過去に新聞記者であることを証明するものは何もない。どうやって証明しようかと考えた。
「なあ、君はこの噂を知っているか国際部室と社会部室の間にある便所にまつわることなんだが」
「はあ」
記者は、やや興味ありげだ。
「あそこの便所の一番隅の個室は、幽霊が出るから誰にも使われないという話さ。あの便器に座ると幽霊に引きずられて穴の中に吸い込まれ二度と出られなくなるって話さ」
「へえ、やっぱりずっと言い伝えられているんだ。信じちゃいなかったけど、何となく怖いから僕は使ってなかったけど」
記者の表情が、和らいで龍一に親しみを感じ始めているようだ。
「いやあ、白川さんと言いましたね。どうやらあなたは元朝夕の人らしい。でなければ、そんな社内だけのくだらない噂を知っていたりしませんものね。僕の先輩ということですか」
龍一は、そっと微笑み
「良かった。分かってくれて。その同じ会社出身のよしみとして、どうしても頼みたいことがある。食料が欲しいんだ。今、私は家族とこの近くにいる。外は危なくて歩けないんだ。だから、私が食料を調達しようと思って外に出た。どこか食料を手に入れる場所を知らないか。知っていたら連れて行ってくれないか。金ならある」
「今は、どこも危険です。食料といえば、軍部があるところからどんどん略奪していってますし、まだところどころで戦闘が続いています。日本人だからといえども食料探しにあちこち歩き回るのは大変危険です」
龍一は焦った。どうしたらいいのか。このままでは餓死しかねない。
「何なら、支局にある食料を少し分けてあげましょうか。車に乗って行きましょう」
記者がそう言うと、龍一はほっとした。
記者が運転席に乗り、龍一が助手席に乗った。そして、車は走り出した。
龍一は、便所の噂のことを思いだし、自分が作った噂に救われたことを不思議に感じた。便所の隅の個室に幽霊が出るというのは、龍一が便宜上作り流した噂だった。というのは、その便器しか社の中では洋式の座り込む型ではなかったため、上海と神戸に住んでいた頃、自宅の西洋式トイレで用を足すことに慣れていた龍一にとっては、他の者に使われ塞がれると大変困ったからだ。龍一が退社した後でも、噂だけはしっかり残っているのが幸いした。
「南京にはご家族で住まわれているのですか」
記者がきく。
「ああ、事情があって、避難できなかったんだ」
龍一は、素っ気なく答えた。中国人の友人家族を守るために来たなんておくびにも言えない。
車は、角を曲がり別の通りに出た。
龍一は、窓からの光景を見てはっとした。死体だ。通りに死体が転がっている。道沿いに何体も、武器を持っている兵士もいれば、どう見ても一般市民らしいものもいる。女性や少年も。どうやら激しい戦闘があったらしい。目を背けたかったが、目に映る通りの光景から死体を外すことなどできない。おまけに腐乱した匂いも車の中にぷーんと入ってくる。
「何てことだ。こんな光景を国民に見せたら、もう誰も戦争を続けよう何て思わないだろう」
龍一は、思わず言ってしまった。記者が、カメラを持っているせいもあり思いついたことだった。
「そんなもの軍の検閲に引っかかって紙面には載りませんし、記事に書くことだって許されません。あなたも新聞記者だったのなら、よくご存知でしょう」
記者は淡々と言った。この光景を見慣れているからなのか。
「ああ、そうだな」
龍一も、当然のことだと思い、そう答えた。
「それに、どうせこんな写真、読者は誰も見たがりやしません」
「え、どういう意味だ」
「日本では、南京陥落に沸いてどこも提灯行列でお祝いムードです。誰も、戦場の悲惨な状況を見たがらないのです。むしろ、兵士が活躍する迫力ある写真を欲しがっていますよ。我々の仕事は、そんなものを提供することです」
龍一は、その言葉に返す言葉がなかった。もういい。何も考えたくない。さっさと食料を調達しないと飢え死にそうだ。
車は、「大阪朝夕新聞南京支局」という看板の掲げられた建物の前で停まった。周囲は至って静かで死体など見当たらず数人の軍人が銃を持ちながら警備をしている様子だ。
「しばらく待っていてください」
記者は車から降りると建物の中に入った。龍一は、身をかがめ車の中に自分がいるのが見えないようにした。
数分後、記者が戻ってきた。水の入った一升瓶と芋が一杯つまった麻の袋を持ってきた。
車のドアを開け、水と食料を後部の座席に置いた。
「こんなものしかないですが、いいですか」
「ああ、十分だ」
十分ではないが、数日はしのげるだろうと龍一は思いそう言った。龍一は、背広の内ポケットからお金を出そうとしたが、
「いいですよ。これから先、大変でしょう」
と記者は無表情に言うと、龍一は「そうか、すまない。何とお礼を言っていいのか」と答えた。
そして、車は進んだ。約十分後、車は元来た道を通り、龍一が記者を見つけた元の場所に戻って停まった。龍一は食料と水を手に取ると車を降りた。
龍一が降りると、記者はすぐに車を発進させ、その場から離れた。
龍一は、銭の家に戻ることにした。意外に早く食料を調達が出来たことが幸運だったと思えた。とにかく、数日間じっとまた地下室にこもってさえいればいい。不思議な安堵感がこみ上げてきた。
銭の家に着く。だが、驚くことがあった。家のドアが半開きの状態だ。出ていく時はきちんと閉め鍵もかけた。銭が開けたのか、だが、開け放しにするような不用心なまねを彼がするとは思えない。
「いやあ、やめて」
中国語で麗華が叫ぶ声が聞こえる。龍一は急いで家の中に入った。
「やめてください。食料はありません」
銭が、日本語で叫ぶ声だ。地下室から聞こえる。地下室へいくと、床にうずくまり怯える銭一家の前に二人の日本兵が立っていた。一人は二十ぐらいの若者で片手に拳銃を持ち、もう一人は三十半ばぐらいの男で片手にサーベルを持っている。
「おい、大丈夫か」
龍一は、中国語で銭たちに話しかけた。
「おお、もう一人のシナ人がいたのか」
日本兵の一人が彼に対して言う。
「私は日本人だ。いったいどういうことだ。ずけずけと入り込んで」
とっさに若い兵士が龍一の顔を殴る。龍一は、転びそうになったが、平静をとり、
「食料が欲しければここにある。さっさと取れ」と言い、水と芋の入った食料を差し出した。
「おい、貴様、これ軍からの支給品じゃねえのか」
ともう一人の兵士が言った。袋に「陸軍配送」というスタンプが記されている。龍一は、しまったと思った。従軍記者だからこそ、支給されたのを分けてもらった品物だ。
「盗んだんじゃない。軍から食料を分けてもらったんだ」
中年兵士は、袋と水を龍一からさっと奪う。「シナ人に、どうして軍が食料を支給するんだ」とうつろな目を向けて龍一に言う。
「さっきから言っているだろう。私は日本人だ」
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし