失敗の歴史を総括する小説
しかし日本を含めた世界情勢は、軒並み悪化する一方であった。満州国の成立は、国際連盟では認められなかった。それを不満とした日本は国際連盟を脱退する。その後、国内では過激な軍人集団によって首相が暗殺されたり、クーデターを起こされ首都の主要部が占拠されるなどの不穏な事態が起こった。クーデターは制圧されたものの、その後、軍部の政治に対する介入は増していく。
ドイツでは、あのアドルフ・ヒットラーが首相となりナチス党が政権を握った。ナチスは、議事堂が放火された事件を国家の緊急事態とし、憲法を停止させ全権を掌握する独裁体制を敷く。民族優越主義と領土拡大に野心を燃やす危険な国家が欧州に出来上がった。こともあろうか、日本は、そのドイツ、そして、ファシスト党党首ムッソリーニが支配するイタリアとソ連の共産主義に対抗するための「三国防共協定」を結んで同盟関係となっていた。
日本の軍部は、満州国に国内から大量の開拓民を投入する。「五族協和」と詠いながら、現地の人々から土地を奪い、弾圧を繰り返す始末。その結果、中国全土で抗日運動が高まり、日本人である龍一は肩身の狭い思いをしなければならなかった。だが、得意の中国語で中国人になりすましたり、髪の毛の色を変え欧米人になりすますなどの得意技が龍一にはあった。龍一は、日本人であることを隠したりすることには、何のためらいもなかった。すでに日本人であることをほとんど忘れてさえいた。
しかし、地下室にいる今は違う。今は自分自身が日本人であることが頼みの綱となっている。
一九三七年の七月、北京郊外の濾溝橋で日本軍と中国軍がどちらか先にしたのか分からない発砲事件で衝突。当初の不拡大方針を軍部は無視し、北京一帯を占領。それを契機に日本は首都、南京攻略のため、数十万規模の軍隊を差し向ける。中国側も蒋介石総統が宣戦布告をする。日本軍は、激戦の末、上海、蘇州などを占領、ついには南京へと軍隊を差し向け、ほぼ占領状態にしていく。同じ年、首相に就任したのは、龍一のよく知る近衛文麿氏だった。組閣当初は、軍部の暴走を抑える役割を担うことが期待されたものの、就任直後にさっそく軍部に翻弄される事態に陥った。
十一月より、龍一は銭一家のために南京にいた。空爆が頻繁に行われ、陸上部隊も近いことが分かっていた。多くの住民が避難をしていたが、銭一家はそれが出来なかった。麗華が身重だったためだ。龍一は、銭にはすまない思いがあった。龍一が朝夕新聞を退職したため、銭も退職の憂き目にあってしまった。あの満州事変の謀略も表に出せないままとなり歯がゆさと申し訳なさで一杯となった。だからこそ、自ら危険な南京へと入り、彼らを守る義務があると龍一は思った。日本人である龍一なら、彼らを守る上で役立つかもと。
銭は、記者を辞めた後、故郷の南京へ戻り教師の仕事を始めた。南京での生活と仕事が落ち着いた後、婚約者であった幼なじみの女性、麗華と結婚をして一児を持つ一家の主となった。
銭には、かつてのような日本に対する憧れは完全になくなったという。日本に対しては親しみより、憎悪で一杯であると。龍一以外の日本人は嫌いであるとも言った。龍一は当然のことだろうとその感情を受け止めた。
この地下室で過ごすこと、約二週間、二週間前までは、空襲の時以外は、外に自由に出られた。その度に、日本大使館を訪ね、日本軍の動向を聞きだした。そして、日本軍がいかにひどいことを占領地で行っているかも聞いた。あまりにも大量の部隊を送ったため補給が追いついていない。そのため、占領した町や村々から食料を無理矢理奪う行動を取っていると聞く。また、日本軍にとって中国軍の抵抗は予想を超えるものだったらしい。あまりの激戦で戦死者の数もかなり出ており、極限の状態に置かれた兵士達が、敵兵に限らず一般市民に対しても容赦ない仕打ちをしており、軍紀は乱れまくっていると聞く。
こんな兵士どもが、どっとこの南京に押し寄せてくる。南京が、地獄化するのは目に見えていた。そのためもあってか南京に住む欧米人により、「国際難民区」という地域が設置された。ドイツ人の実業家、ジョン・ラーベ氏が委員長を務めることとなった。
南京の北東にあり、揚子江に近い四キロ四方の区画を一時的に難民受け入れ地区として、戦闘は行わず、あくまで一般市民が避難する場所とし、市民の安全を確保する目的があった。大使館に委員は通達し、とりあえずは提案を承諾する運びとなった。
幸いにも、銭の家は、その避難区内にあった。日本軍が南京に到達し、市街戦が本格化した一二月から、市民がどっと押し寄せてきたため、家を完全に締め切り、地下室にひっそり佇むこととなった。
食料は備蓄し、少しずつ食べることにした。外とは隔絶した中にいたが、地下室の天井近くの窓からは、外からの光が差し込み、人が通るたびに影が出来、また、爆音や銃声、悲鳴などが聞こえ、騒々しさは生に伝わってきた。
確実に避難区内にも、兵士が入ってきて戦闘が行われている。それだけは、はっきりと分かった。
二週間が経った今、備蓄した食糧は完全に断たれ、水さえもほとんどない。昨日から、龍一も銭一家も何も口にしていない。その上、寒さが身に応える。特に身重の麗華には危険とも言える状況だ。
龍一は一日ぶりに立ち上がり言った。
「外に出て食料を調達してくる。待っててくれ」
銭は、龍一を真剣に見つめ、「ああ」という感じで頷いた。銭の妻子は眠っている状態だ。
龍一は、来ている服の上着のポケットに日本のパスポートがあることを叩いて確認した。これが命綱だと思った。だが、これからどこにいけばいいのか。とりあえず、大使館の付近に行ってみようと思った。
そして、地下室の階段を上り、一階へ上がり、玄関にまで行く。勇気を出して扉を少しずつ開いた。騒々しい音が、響き渡った。恐る恐る体を出し、通りを走ったりするものには気付かれないようにした。人通りは疎らだ。思ったよりは、平穏だと思った。もう、主要な戦闘は終わったのか。無事、占領状態に移行していったのか。龍一は、しばらく通りを歩きながら思った。
ふと、龍一は、見覚えのある腕章をつけた男を見つけた。若い青年で、車に乗り込もうとしている。手には、カメラを持っている。腕章には、「朝夕新聞」と書かれており記者であることを明示している。見るからに日本人だ。
龍一は、久々に安堵感が込み上げてきた。ずっと忘れていた感覚で、それもずっと離れ忘れていた、かつて属していた組織によりもたらされた。
「君、すまない。君は朝夕の者だろう」
自分の部下に話しかけるように親しみを込めて声をかけた。
若い記者は、いぶかしげに近付いてくる龍一を見つめると
「はあ、あなたは日本人?」
と言った。
「そうだよ。それもかつて君と同じ会社に勤めていた。六年前まで大阪朝夕新聞の国際部にいたんだ。部長を務めていた白川龍一なんだ」
龍一は懐かしささえ感じた。
「はあ、ですが私は二年前に入社した者なので」
「そうだな。新しい人は知らないよな。そうだな。国際部部長の宮台真司さんは知っているよね。彼は、私が部長の時、副部長だった」
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし