失敗の歴史を総括する小説
龍一は、自分の目が信じられなくなった。こんな社説を書いたのは誰だ。署名には国際部部長とある。ああ、宮台か。どういうことだ。彼は、こんな社説を書けるほど中国状勢には詳しくないはずだ。確かに、張学良と対立する現地の有力者はいる。中にはかなり親日的な者もいるが、日本軍による独立国家建設を願っているかというと、それはかなりの事実誤認だ。満州を含め中国全体では、抗日運動が盛んになっている。すでに在留邦人が被害に遭っていると聞く。
「いやあ、いい記事ですな。朝夕さんからこんなすばらしい記事が読めるとは思ってもいませんでしたよ」
すぐ隣に、髭面の中年男が立っていた。一週間前に、朝夕の社屋まで不買運動の抗議書を携えやって来た男だ。
「これはあなたが書いたんですかな。やっと我々の意向を汲み取っていただけましたな。今こそ、国民一丸となって軍を応援しなければいけない時ですからな。は、は、は」
髭面の男は高笑いをして龍一を見つめた。龍一は何も言わなかった。
「おばちゃん、一部頼むよ」
と男は小銭を露店主の年老いた女性に差し出し言った。
龍一は、手に取っていた紙面をそっと元あった場所に置くと、その場を逃げるように離れた。
これは何とかしないと。この状態を放置しておくわけにはいかない。
龍一は、とりあえず社屋へ向かった。だが、行く先は国際部部室でも編集局長室でもない。社長室だ。社長に直談判するしかない。 入るのは気が引けた。階段を登って社長室へ行った。社長室に入ると秘書にまず会った。何度も面識のある若い女性秘書だ。
「何でございましょう」
「突然だが、社長に会いたい」
「こちらにはおりませんし、お約束はなかったと思うのですが、白川さん」
「緊急且つ重要な用件なんだ。どこにいるか教えてくれないかな」
龍一は詰め寄った。
「残念ですけど、お教えできません」
「頼む。君が教えたことは分からないようにするから」
龍一は、彼女をぐっと見つめた。
「いつものところで接待に、陸軍の方と一緒です」
「いつものところで接待」、それだけで十分であった。龍一も何度も行ったことのある料亭だ。朝夕新聞が要人との接客でよく使うところである。
龍一は、走って社屋を出るとタクシーを拾った。そして、料亭へと向かった。
料亭に着くと、龍一は顔馴染みの女将に会うと、挨拶をして自分が社長に呼ばれたと告げた。女将は、何の疑いもなく、龍一を通した。どこで接待をしているのかも知っている。この料亭の最高級座敷「松の間」だ。龍一は向かった。
襖の前で立ち止まった。一息を入れた。何の約束もなしに客を接待している中、ずかずかと入っていくのである。
襖の戸に手をあてようとすると、談笑する声が聞こえてきた。龍一は、体を止め耳を傾けた。
「いやあ、驚きましたね。今朝の朝夕新聞は。普段、あれだけ我々に批判的だったあなた方が、こんなにも変わるとは」
陸軍の将校らしき年老いた男の声だ。話し方からして陸軍将校と分かる。階級もかなり上だろう。
「それはもう、風向きは変わりましたから。我が社は、これでも日本全国に百万部の売上部数を誇る大新聞へと成長しました。それは常に読者への要求に応えることを心懸けてきたからです。しばらくは様子を見ていましたが、こうなったからには変革の時です」
三木谷社長の声だ。
「しかし、三木谷さん、そもそも線路爆破も、あの関東軍の輩が勝手に仕掛けたことです。そもそも、こんなこと私らは賛同していなかった。あまりにも無頓着すぎる。まあ、結果的にうまくいっているようですが、奴らが命令をきかずやっていることですからな。内心あなたの新聞が、謀略を暴いて、あいつらの暴走を止めてでもくれればと願っていたんですがね」
「満州事変以来、世の中は軍を持ち上げる動きばかりです。軍を礼賛する記事を載せている新聞は飛ぶように売れています。控えめな我が社は、売国奴とまで蔑まれ部数を落としていましたからね。ここに来て、出遅れながら方針を変えたということですよ」
「ほ、ほう、勝ち馬に乗るということですな。しかし、あなたのところの記者達がそれでは納得しないでしょう。従業員との関係が気まずくなってくるんじゃないんですかね」
「心配には及びません。人事を刷新する計画です。ついてこれない者は、我が社にいてはならないのですよ」
「お、ほう、粛正ですか。怖いですな」
龍一は、耳を疑った。あの社長が、線路爆破を知っていて、その真実を明るみにせず、むしろ軍を応援することを推し進めているとは。それも、売上部数を気にして。
自分が休職になったということは、もう邪魔者になったということを意味する。元の地位に戻ることはできないだろう。それだけでなく、退職させられるのが目に見えている。
目をかけて貰っていると思っていたが、それは、結局のところ持ち駒にされていたのに過ぎなかったと悟った瞬間であった。
龍一は、さっと襖から離れ、静かに廊下を歩きながら玄関に行き、そして、靴を履いて外に出た。
しばらく外を歩き、ほっと一息入れ、立ち止まって考え込んだ。
三木谷社長は、英語でいう「ビジネスマン」だ。彼にとっては、新聞報道の公正さよりも、売上の方が気掛かりなのだろう。朝夕新聞は大衆向けの商業新聞だ。大事なことは会社として売上部数を維持して、さらには拡大していくことが目標とされる。そのため、かつて新聞紙法違反で存続が危ぶまれた時には、言論の自由を守ることよりも、権力との妥協を優先した。そして、今度は、真実報道よりも大衆に迎合して売上拡大を目指すことを選ぶ。筆は権力よりも、資本よりも軽いということか。
龍一は絶望感に苛まれた。そして思った。今度こそ、この社を出ていかなければならない。そして、この狂った日本を。
そうだ、上海に行こう。我が故郷である上海に。日本には、いづらくなった。
翌日、龍一は、辞表を編集局長に提出した。何のお咎めもなく受理され、かなりの退職金が即、支払われた。まさに「渡りに船」という言葉がふさわしい。すんなりと、だが、とても寂しく社を去ることとなった。これまでの日々は何だったのか、新人記者から現在に至るまで、朝夕に入って様々な体験をした。大西記者との出会い、あの「白虹日を貫けり」という記事で社がとんでもない危機に陥ったこと、欧州特派員としての経験、アメリカ、満州での特派員経験。そして、最年少国際部部長に就任。
しかし、その全てが、泡となって消えていくようである。何の意味も持たずに。
翌年、一九三二年三月、旧清国の最後の皇帝愛心覚羅溥儀を皇帝として、大日本帝国にとっての傀儡国家、満州国が中国東北部で成立する。
一九三七年十二月 南京
白川龍一は、寒さと恐怖に震えながら、地下室にいた。この狭い地下室には、龍一と銭、銭の若くて美しい妻、麗華、四歳の幼子、美麗がいた。麗華は妊娠七ヶ月の身重である。
龍一が堪え忍びながら銭一家と一緒にいるのには理由があった。
龍一は、中国に渡ってからの六年間を思い返していた。
上海では、かつての伝手を頼りに亡き父と同様の貿易商の仕事を始めた。父の死に対して同情的だったかつての知人の支援も得られ事業は着々と波に乗っていった。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし