失敗の歴史を総括する小説
数日後、山村社主を襲った二人の暴徒は逮捕された。彼らは、独自の信条で国家を侮辱する大阪朝夕新聞の社主に成敗を加える目的で暴挙に至ったことを語った。
この事件に関して、東京帝国大学教授の吉野作蔵氏は、このような言葉を述べた。
「暴力を使い言論を潰そうとするものは、すでに言論に負けていることを証明しているようなものだ」
一九一八年十一月
龍一は、慌ただしくも苦々しい日々を送りながら、自分の進路については、ある種の結論を出していた。それは、来年早々に大西が刑期を終え出所してくるので、その時に改めて話し合おうということだ。実際のところ、自分としては、世間に自分が白虹記事を執筆した者であることを公表し、記者を辞めるつもりであった。大西が反対しようとそのつもりであったが、大西が刑務所にいる間に、そんなことをするのは、裏切り行為をしているようでならなかった。もう一度、話し合って自分の想いを理解してもらおうと考えた。あと二ヶ月ほどの辛抱だと自分に言い聞かせた。
そんなある日、新任の社会部長から、驚くべき辞令を言い渡された。新任の社会部長は、岸井前部長と同じく東京朝夕から来た人で、岸井氏とは同期だったと聞く。
「え、欧州に行くのですか?」
「そうだよ。君でないと出来ない取材だから、あえて君にこの辞令が下ったんだ。来年1月から今回の戦争の戦後処理に関する講和会議がパリで開かれる。その取材に同行して欲しい」
龍一は、あまりに大きな申し出に驚愕した。
「まだ、僕は記者になってから半年ぐらいしか実績がないですし、海外の長期取材なんてできっこありません」
「でも、君は英語、フランス語、ドイツ語が話せる。また、朝夕の中ではポーランド語が話せる唯一の記者だ。欧州への特派員としてはもってこいだ。それに君の母さんはポーランド人だったんだろう。君はパリだけでなく、ポーランドにも行って来て欲しい。ポーランドは今、百二十年ぶりに諸外国の支配から逃れ独立を果たした。その様子をルポルタージュして欲しいんだ」
龍一は思った。冗談じゃない。自分は、出所する大西を出迎えなければいけない。欧州までの取材となるとかなりの長い期間、日本を離れなければならない。大西の出所とすれ違いになるのは避けたかった。何が何でも断ろうと考えた。
「ですが、あのう・・」
「これは、岸井くんからの意向でもあるんだ。分かってくれないかね。君にこの仕事を引き受けて貰わないと、私も引き継ぎを果たせなくなってしまう」
岸井部長が?と驚いてしまった。恩のある人だと思った。だが、それでも断りたかった。そもそも、言語は上海にいる欧米人と触れ合ったり学校で学んだものだが、実際に欧州に行ったことがあるわけではない。そこまで行って取材までするというのは、かなり不安である。
「何も取材だけしろというのではないんだよ。どうだね、君はまだ母さんの土地に足を踏み入れたことがないんだろう。君の母さんは、独立運動家で、そのため迫害を受けて亡命した身だったと聞く。今や独立を果たしたポーランドで君の母さんの足跡を追いたいとは思わないかね。そうだ、母さんのご家族である君にとって親類に当たる人にも会ってみたくないかね」
社会部長の言葉に、龍一は驚いた。ちょっとぶしっつけではないかと思った。
「そんなことおっしゃられましても、特派員としていくのですから、個人的なことに時間を費やすわけにもいかないですし」
「いいんだよ。時間はたっぷり使って。会社のお金を使って、こんなことを出来るなんて恵まれているとは思わないのかね」
社会部長の言葉に、龍一は開いた口がふさがらなかった。
一九一九年一月
神戸から上海、コロンボ(現スリランカ国の都市)を経由して、フランスの地中海に面する港湾都市マルセイユまでの約一月半に及ぶ船旅の後、列車でパリに大阪朝夕新聞の取材班は向かった。龍一もその中の一員であった。
龍一は、髪の毛をこの取材旅行のため茶色に染めヨーロッパ人に見えるようにした。もちろん、パスポートは日本のものを持っているので、日本人には変わりないが、ヨーロッパの白人に見られる方が取材では有利なのではと考えた。
生まれて初めての長期の船旅、そして、フランス、パリは、思いも寄らぬ衝撃であった。龍一の育って見てきた上海は、中国の中にありながら、東洋のパリといわれていて、フランス人も多く住んでいたが、さすが本場のパリにはかなわないと感じさせられた。そこには、純なフランスがあった。
実際のところ、龍一は今度の欧州取材で最も見たかったところは、ポーランドよりも、フランスであった。それは、フランスという国に対する興味と大戦の戦後処理を話し合う講和会議を目の当たりにすることに意義があると見ていたためだ。
この取材旅行を選んだがために、大西の出所に立ち会えなくなった。せめてと思い、刑務所での面会を申し出たが、大西は誰とも面会を拒否しているといわれた。
そもそも自分に長期の欧州取材の辞令がきたのも、社を去った岸井元社会部長の意向であったのが頷ける。おそらく大西が頼んだことと推測される。大西は自分と再会するのを避けたかったのだろう。だが、そこまでするのなら、それもやむ得ないと考えた。欧州から戻った後でも、再会して話し合うことはいくらでも出来るのだ。
講和会議は、パリ郊外のベルサイユにあるベルサイユ宮殿で執り行われた。
大戦の勝者である連合国のイギリス・フランス・アメリカ・イタリア四国で主に進められたが、日本も連合国側について中国でドイツと戦ったこともあり、全権委員団を派遣していた。
龍一を含む大阪朝夕の取材団は、その様子を刻銘に記録し日本へ配信した。講和会議は半年もの長きに渡った。
講和会議というのは、敗戦国の戦争責任と賠償を取り決めるものだが、実質上、勝った国が負けた国に何を要求するかを決めるに過ぎず、負けた国が、それに対し主張することはほとんど認められないのが現状だ。
敗戦国側のドイツには、過酷な要求が課せられる結果となった。
領土の一部をポーランド、フランスに割譲され、国家予算をはるかに凌ぐ賠償金を払わされた上、戦争責任の全てが自らにあったことを認める条項に署名をさせられたのだ。いくら敗戦国とはいえ、これは酷すぎると龍一は思った。だが、同時に、ポーランドの独立が領土を含め、この講和会議により正式に認められるようになったことを考えると、複雑な気持ちであった。
日本は,講和会議に、山東省におけるドイツ権益獲得,太平洋における赤道以北のドイツ領南洋群島の割譲、および人種差別撤廃の3件の要求を出した。山東問題および南洋群島問題に関しては日本の要求が認められ、とくに南洋群島は、委任統治領としてではあるが自国領土の構成部分として施政を行うことが認められた。しかし,人種差別撒廃問題は、オーストラリアなどの反対により全会一致とならず、採択されなかった。
この会議により、大戦を二度と起こさないようにさせるため複数の国々が話し合いを持つ場としての国際機関、国際連盟が設立された。龍一は、特派員報告の一部で、この試みは世界平和構築のため歓迎すべき前進だと評した。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし