現代異聞外伝/杉沢村
眼球と舌は飛び出して、
全身を赤黒く染めて、
体液という体液を垂れ流しにして。
──白濁した眼球で、昌子を睨んでいる。
恐怖ではなく嫌悪を覚える。本当につまらない男だった──そんな男のために自分が苦労して穴を掘っているのだと考えると、何もかも投げ出してしまいたくなる。
「たとえば、あんたの娘だ。もう大学生なんだ、親の世話にならずに欲しいものぐらい自分の金で買おうって、そう考えるのはむしろ良いことだろ。特に最近帰りが遅かったのは、ちょっと高めのものが欲しかったからだよ」
薄汚れた月光を浴びる少年が手にしたものは、二枚の紙片だった。暗くて何が書いてあるのかは読めない──読めないが、昌子はそれが何であるか知っている。穴を掘り始めたすぐ後に、少年が一度だけ間近で見せてくれたからだ。
夫の側で、娘がじっと俯いたままの姿勢で立っている。
真っ赤に充血して淀んだ眼差しで、
口から大量の血液を吐き出しながら、
喉を震わせるたびにごぼごぼと水音を立てて、
──何をするでもなく、ただ立っている。
小さい頃は可愛い子だった。だが成長するにつれ母親である昌子とは意見が対立することも多くなり、醜く老いた自分を馬鹿にするような態度をとるようになった。ただ若いからというだけの理由で、何でも思い通りになると思っているような娘だった。
「たとえば、あんたの息子はどうだ? 確かに悪い仲間とつるんでるように見えたかもな。勉強もまあ、普通に嫌いだったんだろ。だからってそれが悪いことか? 息子さんは息子さんなりに将来のことを考えてたみたいだぜ? いっつもつるんでたのは別に暴走族の仲間とかじゃない。あんたの家の近くに、結構大きめの自動車整備工場があるだろ? そこの人達だよ。資格の取り方とか、働き口の話とか、結構真剣に聞いてたみたいだぜ?」
──パズルみたいなもんだ。
繰り返し、少年は嫌らしく笑う。
半月を描いた眼差しで、頬まで裂けるような唇で、優しさの欠片もない笑顔で。
昌子を嘲笑い、見下している。
ふと顔を上げれば、穴を隔てた向かい側に、息子が呆然と立ち尽くしていた。
深く切り裂かれた喉からどす黒い血液を垂れ流し、
胸と腹は何箇所も刺されて内臓が溢れ出し、
眼球をえぐり取られた眼窩は黒々とした虚無を湛えている。
ろくに勉強もしないで、遊び回っているだけだった息子。幼い頃からやけに反抗的で、まともにこちらの言うことを聞いたことなど一度もない。小学生だった頃に同級生の男の子と喧嘩になり、相手は骨折するような大怪我を負わせておいて、悪びれた素振りも見せなかった。どれだけ惨めな思いで相手の親に平謝りし、治療費だの何だのと負担させられたと思っていたのか。その金も全て昌子が稼いだ金だ──そのとき夫は単身赴任で地方に出向いていて、事件の話をしてもああだのうんだの、わかったようなわからないような返事をしただけだった。
「あんたの面からは、あんたの見方しか出てこない。でもほんの少し工夫すれば、他の面が見えてくる──面ごとの色が混ざり合って、自分の見方にだって変化が出てくる。でもあんたは、全部を放棄したんだ。あんたの面だけ見て、その色を変えられなくて、かといって工夫して他の面を見ようなんて努力もしなかった」
──杉沢村って話、知ってるか?
嘲笑いながら、傾いた角度で昌子を見上げて。
少年は一方的に言葉を続けてくる。
「かつて青森県の山中に杉沢村という村があった。昭和初期、突然発狂した一人の村人が、村民全員を殺して自らも命を絶つという事件が起きた──誰もいなくなった村は、隣村に編入され廃村となり、地図や県の公式文書から消去された。しかし、その廃墟は悪霊の棲み家となって現在も存在し、そこを訪れた者は二度と戻っては来られない……ってな感じの、まあ与太話の類だよ。実際に杉沢村なんて村はなかった。あくまでただの通称で、地元の人間が杉沢村って呼んでただけだ」
──それでも、杉沢村っていう村が出来ちまったんだよ。
「そんな村はなかった。そんな事件はなかった。悪霊もいないし妙な看板もない。ただ、青森の山奥なんて過疎化の進んでる地域も多いから、廃村──というか廃屋だけは沢山ある。あとはただ、見たいものを見たい連中が騒いだだけだ……廃屋があるからそこは廃村で、廃村になるには悲しい事情や悲惨な事件があったんだと思いたい連中が、杉沢村を作った」
──あんたも同じだな。
そう言った少年の表情は、既に笑っていなかった。
はっきりと怒っていた──怒り狂っていた。
嘲り、侮蔑しながら、火のように憤怒していた。
昌子には彼が怒っている理由がわからない。
そもそも彼が穴を掘れと言ったのだ。
生まれ故郷のこの地で、不幸を全部埋めて隠してしまえと言ったのだ。
なのに──今更、怒るなんて。
「おまえが──」
──おまえがやれと言ったんだ。
こうすれば幸せになれるって言ったんだ。
こんな辛い思いをして、馬鹿みたいに穴を掘らされて。
全部、おまえが──
「──おまえがやれって言ったんだ!」
「俺は『そこまでやれ』とは言ってねえよ」
笑いながら怒り狂って──。
少年──稲毛紘一郎と名乗った彼は、一面の黒雲を背に負って立ち上がった。
昌子を取り囲むように立ち尽くす家族達を指さして、
「──みんな殺しちまったんだな、あんたは──」
──凍えた地中の泥のような声で、糾弾してくる。
「俺が隠せと言ったのはあんた自身だ。物事の一面しか見えない、他の面を見ようとする努力さえしない、あんたのその致命的な怠惰を、この穴に埋めて隠せと言ったんだよ。聞いてなかったのか? 俺は最初っからそう言ってるはずだぜ」
「そんな──嘘。嘘でしょ! だって──私の不幸を、この穴に埋めろって……」
「あんたの不幸は、あんたの家族だったのか?」
夫が。
恨めしげな呻き声を上げる。
縊死したままの姿で、ぐいぐいと肩を押してくる。
「旦那さんは必死に仕事をして家庭を維持しようとした──」
娘が。
ごぼごぼと音を立て、血溜まりを吐き出す。
農薬を大量に飲まされて悶死したままの姿で、腕を引っ張る。
「娘さんはいつも報われないあんたとあんたの旦那さんに、旅行券を買ってやろうとしていた──」
息子が。
溢れる腸を引き摺りながら、穴の中に埋もれていく。
斬殺されたままの姿で、足を掴んで穴の中へと引きずり込もうとしてくる。
「息子さんは自分なりの夢と目標を見つけて、早く自立して家計を助けたいと思っていた──」
稲毛紘一郎の姿はどこにもない。
打ち据えるような声だけが、わんわんと穴の中まで残響している。
止めて、助けてと叫んだが、昌子の願いを聞き入れてくれる人間はいなかった。無視され、虐げられてきた──今までの人生そのままに、不幸に包み込まれるように泥が降り注ぎ、全身を冷たい地中に閉じ込めていく。夫も、娘も、息子も、どれだけ許しを乞うても助けてはくれない──三人一緒になって、昌子を深い闇の中へと押し込めようとする。
「あんたの不幸は、物事の一面しか見ることのできない──あんた自身だったんじゃないのか?」
頭上で、夜空が閉じていく。
作品名:現代異聞外伝/杉沢村 作家名:名寄椋司