小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

現代異聞外伝/杉沢村

INDEX|1ページ/3ページ|

次のページ
 

『杉沢村』


 夜が深く手を伸ばし、空に黒々とした闇が塗り込められていく。
 曇天に隠れ、星の灯りはどこにもない。時折雲間から姿を覗かせる月は、その清廉さを忘れ去ったかのように毒々しい青に染まっていた。
 森は夜空よりも尚暗く、黒く周囲を取り囲んでいる。粘つくような冷気が肌にはりつき、どれだけ厚着をしても震えは一向に収まらない。むしろ全身を包む悪寒は時間が経つにつれ深刻なものとなり、指先は凍えて差し込むような痛みを訴え始めていた。感覚は鈍り、無我夢中で振り回すスコップを何度も取り落としそうになる。そのたびに雪のような焦りが降り積もり、昌子(まさこ)は苛立ちに歯の根を軋ませた。固い地面を突き、半ば凍りかけた泥を掻き出して、大きな穴を掘り進めていく。
 森と、今はもう誰も住んでいない廃屋が、じっと背中を見下ろしている。
 塗り潰されたように黒い夜の圧迫感に怯えながらも、昌子には手を止めることができない。追い立てられるような心地で固い地面を掘り返し、泥を掻き出し、より深い地中まで穴を広げていく。穴の脇に泥を積み上げていくたび、自分を取り巻く全ての不幸もまた積み上がっていくような気がした。形のない苛立ちが募り、峻厳とした森に責められているような錯覚にすら囚われる。
 ──私のせいじゃないのに。
 どうしてこんなに酷い仕打ちを受けなくてはいけないのか。
 どうしてこんな辛い目に遭うのだろう。
 どれだけ考えても結論は得られず、無駄な疲労だけが蓄積していく。吹き抜ける冷風が体温を奪い去り、脊髄に直接氷を流し込んだような悪寒を残してどこかへと消えていった。体内の熱と廃村を包む冷気との落差に、頭の奥が軋むような痛みを訴えている。不気味な青色に染まる月が顔を覗かせるたび、笑われているような気がしてひたすらに不快だった。あるいは哀れんでいるのかもしれない──冬の最中、どことも知れぬ廃村に潜り込み、奴隷のように穴を掘り続ける自分を哀れんでいる。
 ──奴隷みたい。
 ──本当に。
 我が事ながら、奴隷のような人生を送ってきたように思う。
 仕事にかまけてばかりで、家ではろくに口をきこうともしない夫。
 大学に進学してからというもの、バイトだ何だと遊び呆けて、家に寄りつこうともしない娘。
 どれだけ言っても勉強に熱が入らず、悪い仲間と遊んでばかりいる息子。
 西田昌子の人生は、家族という名前の鎖に繋がれた犬も同然だった。
 朝起きて朝食を作り、父と息子のための弁当を用意し、洗い物をし、洗濯機を回してパートに行く。面白くもない仕事を終え、家に帰る途中買い物を済ませ、夕飯の支度をし、後片付けが一段落した頃にはすっかり疲れ果てている。自分のための時間などどこにもなく、家事を負担している自分に対して家族が礼を言ったことなど一度もない。気にかけている素振りすらない──家族は皆、昌子が家事をやって当然だと思っていたのだ。
 仕事が休みの日には掃除をして当然、ゴミ捨てに行くのも町内会の話し合いに参加するのも、全て昌子がやって当然だと思っている。自分達は好きなことをやっている癖に、昌子にはそれが許されない。
 ──奴隷だ。
 奴隷でいる内に、年老いてしまった。
 しわが目立つ肌、たるんだ肉、疲れ切って落ちくぼんだ目。化粧をしても隠しきれないような染み、張り出した腹。
 気が付けば──もう取り返しがつかないぐらい、醜くなっていた。
 ある日鏡を覗き、ようやく気付いたのだ──自分の人生が無為に食い潰され、これからも永遠に食い潰され続けるだろうことに。死ぬまで家族のために奉仕し続け、誰からも顧みられないまま死んでいかなければいけないことに、気付いてしまった。
 途端に、耐え難い恐怖に襲われた。
 昌子にとって家族とは心の通じ合わない化け物のようなもので、どれだけ自分の窮状を訴えたところでまともに取り合ってはもらえない。助けを求めても応えはない。皆が皆、昌子の人生に一片の価値も認めていない。
 殺されると──そう、思った。
「殺されると思ったんだろ?」
 がちん、と──。
 冷たい音を立てて、スコップの先端が硬い岩を突いた。鋭い感触が掌に返り、痺れるような痛みをねじ込んでくる。噴き出す冷や汗を拭うこともできず、苛立ちと焦りに追い詰められていく昌子に、少年は陰気な声をかけてきた。穴の中を覗き込むような位置に座り込み、呑気に足をぶらつかせている様は、明らかにこちらを揶揄しているとわかる。
 一見快活なように見えて、ひどく捻れた陰を潜ませた笑顔。
 痩せた体を紺色の学生服で包み、時折寒そうに白い息を吐いては掌を温めている。
 斜に構えたような、皮肉げな形に唇を歪ませて、陰気な少年は値踏みするような目付きで昌子を睨め上げていた。
「良いように働かされて、死ぬまで逃げられないと思ったんだろ?」
 嬲るように。
 責めるのではなく、いたぶるように。
 にやにやと嫌らしい笑みを浮かべた少年は、微妙に湿っぽい口調で喋り続ける。
「どれだけ頑張っても報われない、自分の努力なんて誰にも認められない、そう思ったんだろ?」
 ──そうだ。
 いちいち答えを返していられるような余力はない。穴を掘り続けるだけで精一杯だった。腕の筋肉は凝り固まり、肩は僅かに持ち上げただけで目眩すら伴う痛みを発する。心臓に一枚膜が張られたように鼓動は弱々しく、呼吸をするだけでも肺が捻れるような感覚に襲われた。疲れ果て、いちいち横から口を挟んでくる少年に文句を言うだけの気力もない。底も見えなくなるまで穴を掘り続けることだけが、今の昌子に唯一許された行為だった。
 ──そうだ。
 頑張っても頑張っても、誰もそれを褒めてくれない。
 褒めるどころか、頑張ったことに気付いてくれる人間すらいない。
 自分の不遇に気付き、絶望し悲嘆する昌子の前に、この少年が現れたのだ──もしも自分のことが不遇だ、不幸だと思うなら、それを埋める穴を掘ればいいのだと。見も知らない、一回り以上年下の少年の言うことに、何故か昌子は抗えなかった。埼玉の片隅に押し込められた小さな家を離れ、生まれ故郷の北国まで来て穴を掘っているのは、この少年がそうするようにと教えてくたからだ。
 中肉中背、適当な長さに髪を伸ばした、これといって特徴のない少年。
 恐ろしく陰気で皮肉げなこの少年に──唆(そそのか)された。
「でもさ──大概の人はそうなんじゃねえの? 頑張ったら頑張った分認められるとか、そういうのって普通漫画の中だけじゃねえ?」
 ──世の中そう甘くないよな。
 くつくつと、喉の奥で笑いを噛み殺しながら、少年は胸のむかつくような声音で囁く。
 両手で何かを包むような仕草を見せて、左右の手をそれぞれ反対側に捻って、
「──パズルみたいなもんだよ──」
 ──あんたの面からは、あんたの見たいものしか見えないんだ。
 鋭く吹き下ろす冷気にも紛れることもなく、少年の声は鼓膜を裂くように響く。
「たとえば、あんたの夫だ。確かにつまんない人間だったかもな。仕事にかまけてばっかでさ。でもそれって悪いことか? 旦那さんは旦那さんなりに家庭を、あんたを守ろうとしただけだろう」
 背後に──。
 夫が、立っている。
 首に紐を巻き付けたままの姿で、
作品名:現代異聞外伝/杉沢村 作家名:名寄椋司