わたしは空を抱きしめていたい
「そんなことないよ。村瀬も来ればよかったんだよ」
「嫌ですよ。婚礼なんて、疲れるばっかりだ」
にべもない。河相と窪と村瀬は三人とも、小学校から大学まで一貫の私立学校の同窓で、河相と窪は同級、村瀬は窪の後輩だ。さほど親しくはないものの、窪を通じて河相と村瀬にも面識はあるので、式の招待状は村瀬宛にも届いた。
「知り合いが結婚するのは、そんなに辛いかな」
ありもしない学会の手伝いを断れないという理由で、「欠席」に丸をつけて返信用葉書を投函しようとしている村瀬に、窪はそう問うた。彼は素直に「ええ」と答えた。
「俺が先輩の立場だったら余計に式なんか出られないですよ。目の前で誓いの口付けでもされた日にはたまらない。だから、祝辞まで引き受ける先輩は、凄い大人だと思いますよ」
日頃は好んで皮肉を口にする村瀬だが、このときの物言いには揶揄の響きはなかった。本心から言っていた。
「……あいつが結婚するのはずっと前からわかってたことだから。そのときがきたら、誰よりも祝福してやりたいと俺もずっと思ってた。あいつが幸せになってくれれば、俺は何でもいいんだ」
窪も心からそう言った。少なくとも、そのときは心底そう思っていた、つもりだった。
河相が結婚することは彼が生まれる前から決まっていたことだ。窪と知り合った頃には、既に河相には婚約者がいた。尤も、河相本人はその女性の名前も顔も知らされてはいなかった。彼は名のある海運会社の跡取りだ。
窪との同居も、大学に通う四年間という期限つきだった。だから窪は、気心が知れた河相との暮らしがどれだけ快適でも、それに甘えないように常に心がけていた。それなのに河相は、そんな窪にお構いなしに、
「ずっとこのまま暮らせたらいいのになあ」
などと言う。あっさりと、何度でも。
「いっそお前がうちの嫁に来ればいいんだ。一生面倒みてやるよ」
茶を淹れようと、台所で湯を沸かす窪の背中に、笑い混じりのそんな言葉を投げてくることさえあった。
「……勘弁してくれよ」
困惑を隠せずに窪が振り返ると、ちゃぶ台に頬杖をついている河相と真っ直ぐに目が合った。その目の予想外の真面目さに、窪はますます困惑する。
「…………窪、お前がこの生活をこの先も続けてくれるんだったら、俺…………結婚しないかも知れない」
しゅう、しゅう、と薬缶が鳴る。弾かれたように窪は向き直り、向けた背に刺さったままの河相の視線を振り切るように、笑い飛ばした。
「莫迦なこと言ってないでとっとと結婚しろよ。俺も恋人を連れて式に出られるように、今からその日に備えておくから」
そのひとことだって冗談のつもりではなかったにも関わらず、未だ窪は同じ部屋で、同じような生活を続けている。河相が村瀬に変わっただけだ。恋人など、勿論いない。
その村瀬は赤飯に附いていたごま塩を手にして、何事か考えている。窪と目が合うと、村瀬は小袋をしゃかしゃか振って見せた。
「塩水に入れたら元気にならないかな、あの黒出目」
「そんな話どこで聞いたんだ」
「いや、漫画か何かで読んだだけですけど」
「だって金魚は淡水魚だよ。海でなんか余計に生きられないんじゃないか」
海。あんな塩からくべたべたした水の中で、魚たちはどうして生きてゆけるのだろうと窪は不思議に思う。あれが生命の源なのだと思うとぞっとする。窪は海が嫌いだった。
「……村瀬は、海、好きなんだっけ」
「何ですか急に。別に、好きでも嫌いでもないですよ、……ああ、でもどっちかといえば嫌い、になりました。先輩の影響で」
笑って、村瀬はさらりと言う。いつも冷たい肌をして、誰かに体温をうつすことなどなさそうな、まして誰かの体温でぬくもることなどなさそうな村瀬なのに、彼は窪の言動にかんたんに染まってしまうところがある。それが窪には疎ましい。
「だけど、村瀬は泳げるんだよな」
「うーん……最近泳いでないからどうですかね。どのみち、プールで泳ぐほうが好みです。そういう先輩はどうなんです、泳ぎは」
「泳げないから海が嫌いなんだ」
「えっ、そうなんですか? てっきり河相さんのせいだと思ってた」
「違うよ」
そう言ってはみたものの、窪が海を嫌いになったのは河相と出会ってより後だったような気がした。海は河相に繋がり、どこかで女に繋がっている。
海は仏語では女性名詞だと教わったのは何の講義だったろう。偶々河相も窪も同じ科目を取っていて、同じ教室でその話を聞いた。
「女のひとを抱いているとき、海の中にいるような気がするって本当だろうか」
河相が寝物語にそう言ったのは確かその日の夜だった。その言葉は、うとうとしかけていた窪を一気に眠りから引き戻した。
「え、……なにそれ」
「前に立ち読みした本に書いてあった。本の題名はもう覚えてないけど、そこだけ変に印象に残って忘れられないんだ。あたたかい、やさしい海の中を泳いでいるみたいだって」
気障だよね、と河相は低く笑った。河相は海が好きだった。あまり泳げないくせに、頻りに海を見たがった。本当は自分を誘って海に行きたがっていることを窪は知っていたが、わざと気がつかないふりをしていた。
「だけど、もし本当にそうだったら、」
「……そんなことないよ。気持ち悪いよ」
吐き捨てて、窪はしまったと思った。河相には言っていないし、今は言うつもりもないことだったのに、口が滑った。暗がりで見えなくても、河相の表情が凍るのがわかる。しかし河相は穏やかに、そうなんだ、と相槌を打った。
「気持ち悪いよ。何か……得体の知れないものにのまれる感じがするし、何だかわからないけどぐちゃぐちゃになるし」
後に退けなくなって半ば自棄で言い募りながらも、そのときのいまわしい感覚が生なましくよみがえってくるようで窪は腕をさすった。何とかすべてを終わらせたあと逃げるようにかけこんだ浴室で、こみあげる吐き気に膝をついて、呆然と湯を浴びつづけたあのときの激しい嫌悪と後悔。体のどこもかしこもひどく汚れているような気がして、痛めつけるように皮膚を擦った。海水浴のあと、流しても流しても落ちない潮のにおいを必死で洗い流そうとするときのように。
手のひらが火照ってあつい。窪は枕の下に手を滑り込ませた。河相が静かに訊いた。
「窪、恋人がいるのかい」
「……いや、そういう訳じゃない……けど」
恋人どうしにはなれなかったのだ。器量も気だても良くて、好意を持っていた女子学生だったけれど、その夜が明けてからはもう口を利くことも出来なかった。やっと恋人を得られると思ったのに。これで、河相が結婚しても大丈夫だと思ったのに。
会話が途切れた。大して広くもない座敷で、端と端を重ねるようにして布団を並べているのに、河相の気配がひどく遠い。冷えていた枕カバーと敷布の間は差し込んだ手のぬくもりですぐにぬるくなり、窪はうんざりして手を引き抜いた。せっかくここちよくつめたくあるものを、自分の熱が台無しにする、いつも。
眠ろう、そう思ってぎゅっと目を閉じたとき、背中ごしに河相が呟いた。
「……俺には出来ないことが、窪には、出来たんだね」
作品名:わたしは空を抱きしめていたい 作家名:柳川麻衣