わたしは空を抱きしめていたい
河相が寝物語にそう言ったのは確かその日の夜だった。その言葉は、うとうとしかけていた窪を一気に眠りから引き戻した。
「え、……なにそれ」
「前に立ち読みした本に書いてあった。本の題名はもう覚えてないけど、そこだけ変に印象に残って忘れられないんだ。あたたかい、やさしい海の中を泳いでいるみたいだって」
気障だよね、と河相は低く笑った。河相は海が好きだった。あまり泳げないくせに、頻りに海を見たがった。本当は自分を誘って海に行きたがっていることを窪は知っていたが、わざと気がつかないふりをしていた。
「だけど、もし本当にそうだったら、」
「……そんなことないよ。気持ち悪いよ」
吐き捨てて、窪はしまったと思った。河相には言っていないし、今は言うつもりもないことだったのに、口が滑った。暗がりで見えなくても、河相の表情が凍るのがわかる。しかし河相は穏やかに、そうなんだ、と相槌を打った。
「気持ち悪いよ。何か……得体の知れないものにのまれる感じがするし、何だかわからないけどぐちゃぐちゃになるし」
後に退けなくなって半ば自棄で言い募りながらも、そのときのいまわしい感覚が生なましくよみがえってくるようで窪は腕をさすった。何とかすべてを終わらせたあと逃げるようにかけこんだ浴室で、こみあげる吐き気に膝をついて、呆然と湯を浴びつづけたあのときの激しい嫌悪と後悔。体のどこもかしこもひどく汚れているような気がして、痛めつけるように皮膚を擦った。海水浴のあと、流しても流しても落ちない潮のにおいを必死で洗い流そうとするときのように。
手のひらが火照ってあつい。窪は枕の下に手を滑り込ませた。河相が静かに訊いた。
「窪、恋人がいるのかい」
「……いや、そういう訳じゃない……けど」
恋人どうしにはなれなかったのだ。器量も気だても良くて、好意を持っていた女子学生だったけれど、その夜が明けてからはもう口を利くことも出来なかった。やっと恋人を得られると思ったのに。これで、河相が結婚しても大丈夫だと思ったのに。
会話が途切れた。大して広くもない座敷で、端と端を重ねるようにして布団を並べているのに、河相の気配がひどく遠い。冷えていた枕カバーと敷布の間は差し込んだ手のぬくもりですぐにぬるくなり、窪はうんざりして手を引き抜いた。せっかくここちよくつめたくあるものを、自分の熱が台無しにする、いつも。
眠ろう、そう思ってぎゅっと目を閉じたとき、背中ごしに河相が呟いた。
「……俺には出来ないことが、窪には、出来たんだね」
女と寝ているあいだ、ずっと河相のことを考えていた。あいつにだっていつかこの夜が来る、これでいいんだ、そう自分に言い聞かせていた。
窪の一度きりの女性経験が露見して以来、河相と窪の間柄は何となくぎこちなくなり、ほどなくして河相は出て行った。
今頃、河相は海の見える眺めのいい客室で、初夜を迎えているのだろうか。下卑たことは考えたくないと強く思うのに、気付けば意識は閨へ飛ぶ。恋愛と性愛と結婚は全部別だと言っていた河相。あんなことを際限なく繰り返す日常に、これから河相は馴染んでいくのだろうか。窪と疎遠だった歳月のうちに、あのとき窪を責めるように「出来ない」と言った行為を河相は出来るようになったのだろうか。
濡れた肉体をべたべたぶつけ合うのではなく、空の高いところで自と他の境界がとけて消えるようにむつみあえるのならよかったのだ。窪は夢想する。海でなく、空ならばよかった。
卓に肘をついて、窪はもの思いに沈んでいたらしい。我に返って目を上げると、村瀬が苦笑いしながら、窪の右手で宙ぶらりんになっている箸を示した。窪はあわてて箸を置いた。
「……河相さんのこと考えてたんでしょう」
「ぼんやりしてただけだよ。疲れてるんだ」
村瀬は立って、卓上を片付け始めた。
「皿洗いはしておきますから、風呂、どうぞ」
「有難う、お言葉に甘えさせて貰うよ」
欠伸を噛み殺して立ち上がり、風呂場へ向かおうとした窪を、あ、そういえば先輩と村瀬が台所から呼び止めた。
「先輩、やっぱり塩入れてみていいですか」
「え?」
「あの黒出目、見てられないです」
「……効かないと思うがなあ。まあ、村瀬の好きにしていいよ」
金盥に食塩水をはって、村瀬は器用に片手で黒出目を掬いあげた。黒出目が盥に落ちるぽちゃん、という水音を背で聞いて、窪は脱衣室の引き戸を閉めた。
窪が湯から上がると既に布団がのべてあり、村瀬は横になっていた。出来るだけ音をたてないように電灯を消 玄関先に置かれた金魚鉢の中で、一匹だけいる黒の出目金が溺れていた。赤い琉金たちが知らぬ顔ですいすい泳ぐ涼しげな様子のなか、腹を上にして、せわしなくひれをばたつかせながら水面近くを漂っている。
黒出目はこの金魚鉢の最古参だ。いつだったか、連れだって出かけた夜店の縁日で、河相が掬ってくれた。河相は金魚掬いが上手かった。窪が試すと一度で薄紙が破れてしまうのに、浴衣の袖を捲り上げて張り切った河相はひょいひょいと面白いように何匹でも掬う。鉢に入りきらないほどの戦利品から、窪が気に入って黒出目だけを貰って帰ってきたのだ。
靴を脱ぐのも忘れて窪が金魚鉢を眺めていると、風呂場から寝巻姿の村瀬が出てきた。ちょうど風呂からあがったところなのだろう、髪が濡れている。しかし肌は、さっきまで湯を使っていたとは思えない程にさめて見えた。
「あ、お帰りなさい」
「……金魚が溺れてる」
「ああ、朝からずっとなんですよ。他のは元気なのになあ。見苦しいからどうにかしたいんですけど、どうしたらいいのかわからなくて」
「水から出したら死んじゃうしなあ」
窪が尚も黒出目を見ていると、す、と村瀬が寄って窪のぶら下げている引き出物を受け取った。
「先輩、礼服似合いますね。背が高いからかな」
「何言ってんだ。土産なんかないぞ」
「格好良いですよ。祝辞のあいだはさぞかしご婦人方の熱視線を受けたでしょう」
「そんな、あがってそれどころじゃなかったよ」
苦笑して、窪は白いネクタイの襟元を緩めた。途端に目の後ろから肩にかけてずっしり重い疲労を感じた。
河相の婚礼は申し分なかった。式は神前で厳かに執り行われ、披露宴の会場は港に繋留された豪華客船のデッキだった。両家とも親族や友人が大勢集まって、パーティーは盛大なものだった。美しい花嫁は白無垢も華やかなドレスもよく似合っており、河相のタキシードも決まっていた。どこから見ても似合いの二人だ。
卓を挟んで折詰の赤飯をつつきながら、窪はそんなふうに今日の話をした。よかったことだけを選んで話した。何もかもが海に近くて、やたらに心を乱されたことは言わなかった。披露宴で酒に酔う前に船の揺れに酔って気分が悪くなり、出された料理にほとんど手をつけられなかったことも敢えて伏せた。村瀬は黙々と箸を動かしながら、大して面白くもなさそうな顔で聞いていた。
「船上だなんて確かに洒落ているけど、先輩には拷問ですよね」
わざと言わなかった部分を突かれて、窪は小さく溜息を吐く。
「仕方ないだろう。花婿も花嫁も海が好きだということだし。新婚旅行も南の島だとか聞いたよ」
「へえ、……行かなくてよかった」
作品名:わたしは空を抱きしめていたい 作家名:柳川麻衣