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わたしは空を抱きしめていたい

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 玄関先に置かれた金魚鉢の中で、一匹だけいる黒の出目金が溺れていた。赤い琉金たちが知らぬ顔ですいすい泳ぐ涼しげな様子のなか、腹を上にして、せわしなくひれをばたつかせながら水面近くを漂っている。
 黒出目はこの金魚鉢の最古参だ。いつだったか、連れだって出かけた夜店の縁日で、河相が掬ってくれた。河相は金魚掬いが上手かった。窪が試すと一度で薄紙が破れてしまうのに、浴衣の袖を捲り上げて張り切った河相はひょいひょいと面白いように何匹でも掬う。鉢に入りきらないほどの戦利品から、窪が気に入って黒出目だけを貰って帰ってきたのだ。
 靴を脱ぐのも忘れて窪が金魚鉢を眺めていると、風呂場から寝巻姿の村瀬が出てきた。ちょうど風呂からあがったところなのだろう、髪が濡れている。しかし肌は、さっきまで湯を使っていたとは思えない程にさめて見えた。
「あ、お帰りなさい」
「……金魚が溺れてる」
「ああ、朝からずっとなんですよ。他のは元気なのになあ。見苦しいからどうにかしたいんですけど、どうしたらいいのかわからなくて」
「水から出したら死んじゃうしなあ」
 窪が尚も黒出目を見ていると、す、と村瀬が寄って窪のぶら下げている引き出物を受け取った。
「先輩、礼服似合いますね。背が高いからかな」
「何言ってんだ。土産なんかないぞ」
「格好良いですよ。祝辞のあいだはさぞかしご婦人方の熱視線を受けたでしょう」
「そんな、あがってそれどころじゃなかったよ」
 苦笑して、窪は白いネクタイの襟元を緩めた。途端に目の後ろから肩にかけてずっしり重い疲労を感じた。

 河相の婚礼は申し分なかった。式は神前で厳かに執り行われ、披露宴の会場は港に繋留された豪華客船のデッキだった。両家とも親族や友人が大勢集まって、パーティーは盛大なものだった。美しい花嫁は白無垢も華やかなドレスもよく似合っており、河相のタキシードも決まっていた。どこから見ても似合いの二人だ。
 卓を挟んで折詰の赤飯をつつきながら、窪はそんなふうに今日の話をした。よかったことだけを選んで話した。何もかもが海に近くて、やたらに心を乱されたことは言わなかった。披露宴で酒に酔う前に船の揺れに酔って気分が悪くなり、出された料理にほとんど手をつけられなかったことも敢えて伏せた。村瀬は黙々と箸を動かしながら、大して面白くもなさそうな顔で聞いていた。
「船上だなんて確かに洒落ているけど、先輩には拷問ですよね」
 わざと言わなかった部分を突かれて、窪は小さく溜息を吐く。
「仕方ないだろう。花婿も花嫁も海が好きだということだし。新婚旅行も南の島だとか聞いたよ」
「へえ、……行かなくてよかった」
「そんなことないよ。村瀬も来ればよかったんだよ」
「嫌ですよ。婚礼なんて、疲れるばっかりだ」
 にべもない。河相と窪と村瀬は三人とも、小学校から大学まで一貫の私立学校の同窓で、河相と窪は同級、村瀬は窪の後輩だ。さほど親しくはないものの、窪を通じて河相と村瀬にも面識はあるので、式の招待状は村瀬宛にも届いた。
「知り合いが結婚するのは、そんなに辛いかな」
 ありもしない学会の手伝いを断れないという理由で、「欠席」に丸をつけて返信用葉書を投函しようとしている村瀬に、窪はそう問うた。彼は素直に「ええ」と答えた。
「俺が先輩の立場だったら余計に式なんか出られないですよ。目の前で誓いの口付けでもされた日にはたまらない。だから、祝辞まで引き受ける先輩は、凄い大人だと思いますよ」
 日頃は好んで皮肉を口にする村瀬だが、このときの物言いには揶揄の響きはなかった。本心から言っていた。
「……あいつが結婚するのはずっと前からわかってたことだから。そのときがきたら、誰よりも祝福してやりたいと俺もずっと思ってた。あいつが幸せになってくれれば、俺は何でもいいんだ」
 窪も心からそう言った。少なくとも、そのときは心底そう思っていた、つもりだった。

 河相が結婚することは彼が生まれる前から決まっていたことだ。窪と知り合った頃には、既に河相には婚約者がいた。尤も、河相本人はその女性の名前も顔も知らされてはいなかった。彼は名のある海運会社の跡取りだ。
 窪との同居も、大学に通う四年間という期限つきだった。だから窪は、気心が知れた河相との暮らしがどれだけ快適でも、それに甘えないように常に心がけていた。それなのに河相は、そんな窪にお構いなしに、
「ずっとこのまま暮らせたらいいのになあ」
 などと言う。あっさりと、何度でも。
「いっそお前がうちの嫁に来ればいいんだ。一生面倒みてやるよ」
 茶を淹れようと、台所で湯を沸かす窪の背中に、笑い混じりのそんな言葉を投げてくることさえあった。
「……勘弁してくれよ」
 困惑を隠せずに窪が振り返ると、ちゃぶ台に頬杖をついている河相と真っ直ぐに目が合った。その目の予想外の真面目さに、窪はますます困惑する。
「…………窪、お前がこの生活をこの先も続けてくれるんだったら、俺…………結婚しないかも知れない」
 しゅう、しゅう、と薬缶が鳴る。弾かれたように窪は向き直り、向けた背に刺さったままの河相の視線を振り切るように、笑い飛ばした。
「莫迦なこと言ってないでとっとと結婚しろよ。俺も恋人を連れて式に出られるように、今からその日に備えておくから」

 そのひとことだって冗談のつもりではなかったにも関わらず、未だ窪は同じ部屋で、同じような生活を続けている。河相が村瀬に変わっただけだ。恋人など、勿論いない。
 その村瀬は赤飯に附いていたごま塩を手にして、何事か考えている。窪と目が合うと、村瀬は小袋をしゃかしゃか振って見せた。
「塩水に入れたら元気にならないかな、あの黒出目」
「そんな話どこで聞いたんだ」
「いや、漫画か何かで読んだだけですけど」
「だって金魚は淡水魚だよ。海でなんか余計に生きられないんじゃないか」
 海。あんな塩からくべたべたした水の中で、魚たちはどうして生きてゆけるのだろうと窪は不思議に思う。あれが生命の源なのだと思うとぞっとする。窪は海が嫌いだった。
「……村瀬は、海、好きなんだっけ」
「何ですか急に。別に、好きでも嫌いでもないですよ、……ああ、でもどっちかといえば嫌い、になりました。先輩の影響で」
 笑って、村瀬はさらりと言う。いつも冷たい肌をして、誰かに体温をうつすことなどなさそうな、まして誰かの体温でぬくもることなどなさそうな村瀬なのに、彼は窪の言動にかんたんに染まってしまうところがある。それが窪には疎ましい。
「だけど、村瀬は泳げるんだよな」
「うーん……最近泳いでないからどうですかね。どのみち、プールで泳ぐほうが好みです。そういう先輩はどうなんです、泳ぎは」
「泳げないから海が嫌いなんだ」
「えっ、そうなんですか? てっきり河相さんのせいだと思ってた」
「違うよ」
 そう言ってはみたものの、窪が海を嫌いになったのは河相と出会ってより後だったような気がした。海は河相に繋がり、どこかで女に繋がっている。

 海は仏語では女性名詞だと教わったのは何の講義だったろう。偶々河相も窪も同じ科目を取っていて、同じ教室でその話を聞いた。
「女のひとを抱いているとき、海の中にいるような気がするって本当だろうか」