幼年記
花火
上
小学校へ上がった年の夏、父が宮崎へ単身赴任することになった。
家族から見れば体よく別荘ができたようなもので、学校が春や夏の休みに入るたび、旅行の荷物を持って遊びに出かけた。
父が宮崎へ移った翌年であるから小学二年の時である。
夏休みに行ったら、花火大会をやるというので、家族で見に行った。
なんでも、違う二つの大会を隣同士で同時にやるとか言うので有名らしく、会場は大変な賑わいだった。
前で赤が揚がったと思えば、後ろで黄が揚がる。
あるいは双方の打ち上げ師の間で示し合わせて、両方同時に揚がる。
そのたびに歓声が上がり拍手が起こる。口笛が飛ぶ。
花火はどんどん多く大きくなっていき、しまいにはお互い競い合うように矢継ぎ早に挙げ出して、光の雨の降るごとくになった。
その下にびっしり詰まった黒い小さな無数の頭が、色を映してきらきら光っていた。
そのうちにようやく花火が止んで、帰る途中、父の赴任中に行きつけになった店へ寄った。
大衆の中華料理屋らしい、汚れの染み付いた白い壁に、テーブルが数えるばかりの簡素な店で、黒く日に焼けて血行の良さそうな親爺と、色の白い奥さんとが、カウンター越しの厨房にぽつんぽつんと立っていた。
そこで父は酒を頼んだ。
姉はチャーシュー麺を頼んだ。
母は飲み食いはせずに、父が飲み過ぎないよう警戒していた。
そうして私は中華粥を頼んだ。
この中華粥が前にも後に知らぬほど、旨かった。
具も何も入っておらず、出汁のみで作った粥なのだけれど、その出汁を一体どのように仕込んだのだか、おそろしく旨い。
一見素知らぬ顔で、素っ気無い風を装いながら、時おり腹の奥を刺激する肉感的な匂いを、見えるか見えぬかというぎりぎりのところでちらつかせて、それを追おうとするのだけれど、どれだけ追っても追いつかない。
あまりに旨いので夢中になって、その後のことはあまりよく覚えていない。
ともかくも、あんまり旨い旨いと言うものだから、厨房から出てきて父と喋っていた店の親爺がひどく私を気に入り、今度の店の休みに鯉を食べに連れて行ってやるという話になったらしい。
後でその事を聞いて、どうせその場の空約束だろうと思っていたら、親爺は数日後、本当に車で家の前まで迎えに来た。
私は鯉なんぞより親爺の粥をもう一度食べたかったのだけれど、そんな我儘を言ったら迷惑をかけると思ったから、黙っていた。
車は何時間もかけて、都市部を離れ、山奥へ分け入った。
やがて山の途中のひらけたところに、涼しげな屋敷が大きく店を構えていて、そこだと言うから中へ入ると、恭しく一室へ通された。
十畳ほどの座敷に障子が開け放たれ、大きな池を中心として日本庭園風にしつらえられた小奇麗な庭が外へ見えた。
その池の中に、赤や黄や黒の大小さまざまな鯉が、模様となってぐるぐる動いているから、ああ、あれが出てくるのだなと思っていると、果たして鯉の料理の山ほど乗った皿が、運び込まれてきた。
鯉は旨くなかった。
焼き物は、どれだけ用心して毟っても、鱗が口の中へざりざりと入ってきて、それをつまみ出すことばかりに気が行って味がさっぱり分からない。
刺身は粗くぶった切ってあるため骨ばかりで、それをしゃぶり出すのにばかり手間がかかって、やっぱり何を食べているのか分からない。
それでも親爺が旨いだろう旨いだろうと得意そうにしているから、無理をして旨い旨いと言いながら、どうにか全部平らげた。
考えてみれば粥を誉めたのになんで鯉を食わされたのか分からない。
帰りの車の中で、腹のぐるぐる鳴るのに閉口しながら、この次はどこへ誘われても断固拒否して、粥を食わしてもらおうと心に決めた。
そうして次の機会を耽々と待っていたら、家族の予定やら何やらで行きそびれているうち、じきに父の帰京が決まって、宮崎へは赴く縁がなくなった。
それからさらに何年か経ったある日に、親爺が末期の病気にかかって店を畳んだらしいということを、父と母の会話から小耳に挟んだ。