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幼年記

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小学校の校庭の隅、職員室のすぐ表にレンガで囲った池があり、鯉が飼われていた。
橙と白地に斑のあるやつがそれぞれ三四匹ずつ、鮮やかな金が一匹、どす黒いのが一匹いた。
五、六年生の中から飼育係が立てられて、その鯉に毎日餌をやる。
それが大変羨ましく見えるのだけれど、中低学年のうちはやらせてもらえないから、登下校の度にその池へ寄っては、近くの植え込みから雑草を抜き、細かくちぎってばら撒いて、撒き餌の気分を味わった。
草を撒くと、橙や斑は我先にとやってきて、慌ただしく喰い出す。
金は後ろから悠然とやってきてその群れをかき分け、二、三切れついばんでからまた悠然と戻っていく。
どす黒はいつも底の方でうろうろしているばかりで、何もしない。
たまに小さな石を放り込んでやると、橙や斑が草と同じようにぱくりとやるのだけれど、すぐに吐き出して嫌な顔をする。
餌と草の区別もつかない連中が吐き出すくらいだから、石というのはよほど不味いのだろうと思った。
水面のこちら側へ身を乗り出すようにして草をぱくつく鯉の顔を眺めていると、その鼻先なりと、触ってみたいように思うことがあるのだけれど、鯉の口は子供の指など簡単に食い千切る、という話を担任の教師から聞いたことがあったから、触らないでおいた。

小学三年の初夏である。
朝から降っていた雨が、帰る頃になってようやく止んだので、畳んだ傘を振ったり回したり、持て余しながら池の前まで来た。
それでいつものように草をちぎってはばら撒き、鯉の様子を見ていた。
雨の後は心なしか元気がない。
普段よりやや緩慢に草へ寄って来る橙や斑を眺めているうち、池の底に、図画工作の授業で水彩画を描く時に使う、プラスチックの黄色いバケツの落ちているのが目に入った。
昨日までは見なかったから、昨日今日のうちに誰かの落としたものである。
取ってやろうと思って傘の柄を下に、バケツの取っ手を狙って突っ込んでみた。
上から見るとすぐ届くところにあるように見えるのだけれど、実際は存外に深く、傘を先端まですっかり入れてもまだ届かぬ。
仕方がないから、Tシャツの袖をまくり、肩まで浸かって、さらにぐいと突き入れた。
すると、いつの間にやらバケツの近くへ来てじっとしていた、どす黒の背中に、傘の柄がぶつかった。
表面の鱗は石のように硬いのに、その内側の肉は腐りかけた果物のようにぶよぶよとして、頼りない。
その感触が傘を通してはっきりと掌に伝わった。
まさか鯉を突付くとは思わなかったから、驚いて手を引っ込めたけれども、鯉の肉の感触は、掌から腕、肩の辺りまで染み込んでしまって、にわかには消えない。
気を取り直そうと思っても、手が震えていけないから、バケツのことは諦めて、そのまま帰った。
そうして次の日からは池に近づかなかった。

間もなく梅雨に入った。
雨に流して忘れようとしてみても、どす黒を突付いた感触だけはどうにも消えなかった。
手に染み込んだ肉の感触を思い出すたび、どす黒の近いうちに死ぬのが、確実なことのように感じられた。
自分が傘で突付いたことが、どす黒の寿命を縮めはしなかったかと考えると、気が気でない。
どうにかしてその責任を回避しようと、胸のうちでいくつもの弁解を試みるのだけれど、やればやるほど、それらがかえって自分の首を締め付けるように思われた。
そうしてどす黒の安否がますます気遣われた。
けれど近づこうとするだけでも手の震えがぶり返してくるから、池へはなかなか行かれなかった。

そうやってぐずぐずやっているうち、いつ死んだのか分からない。
翌年の春先、ふと思って池を覗いたら、どす黒の姿はもうなかった。
他の橙や斑や金もほとんどいなくなって、変わりに新しい色柄のものが大量に入れられていた。
金ほどではないけれども鮮やかな黄色がいる。
どす黒ほどではないけれど、黒いのもいる。
白もいるし、赤もいる。
久し振りに、植え込みの草をちぎってばら撒いたら、それらが一塊りに寄ってきて、あっという間に平らげたと思うと、四方八方へ颯と散った。
何だか花火のようだと思った。
作品名:幼年記 作家名:水無瀬