好きだから、食べさせて
忙しなく周囲の気配に耳を澄ませ視線を走らせているヒバリの様子に、アルは慌てて口をつぐんで唾を飲み込んだ。
「ここに隠れていたら見つからない筈だから、動かないで」
「……どうしてそんなに落ち着いているんだ?」
「……よくある事だから。この家、見た目は大きいから何かいいものがあると思われてるらしくて。大概迷ってどうしようもなくなって出て行くのだけど、こういう日は一晩じっとしてやり過ごすの。ごめんなさい、もう寝てた?」
「心配するのはそこじゃないと思うんだけどね……」
「? 夜、人の寝室に入ってきたからそう言うものじゃないの?」
「ヒバリの場合はまず真っ先に言う言葉がある筈なんだけどね」
「失礼します、とか? あ、そうか。ノックしないといけなかった? でも泥棒に気づかれるのも嫌だし」
「そうじゃなくて。――おかえり、ヒバリ」
「た、だいま」
「そう、それ。それと、久しぶりだね」
アルが口に当てられていたヒバリの手を握って笑いかけると、突如ヒバリが身を固くしてアルの手を振り解いた。それはアルの予想よりも遙かに強い力で、危うくアルは吹っ飛ばされそうになった。辛うじて体が宙に浮く事だけは避けられたが、床に転がされてしまった。
いつぞやの再現のように、ヒバリは脱兎の如く声をかける間もなく部屋からいなくなっていた。
ヒバリは走っていた。迷路のような家の中を、しかし勝手を知った家の中を縦横無尽に走っていた。何故なのかは彼女にも分からなかった。けれども今は走らねばならないと頭の中で言い聞かせていた。飛び跳ね回る心臓を相手に、動悸には動悸をぶつけようと、ひたすら走った。
だからその時、現在家には泥棒がいるのだという事を失念していた。
広間に躍り出てばったりと泥棒三人組と鉢合わせてから気づいた。
「何だ?」
「あ、こいつだよ」
「ああ、確かに面影がある」
泥棒は今までの金目の物が目当ての泥棒と雰囲気が異なり、鷹揚に家ではなくヒバリ自身を品定め始めた。寧ろヒバリ自身が目当てだと言わんばかりの会話に、ヒバリは本能で危険だと察知した。すぐに踵を返して走り去ろうとしたが、大きな固まりが来た道を塞がれた。それが小さな部屋ほどある虎と分かってヒバリは息を吸ったまま吐けなくなった。
「怯えさせるな、テンショウ」
三人のうちの一人、体格の良い男がたしなめるように言う。
「逃がさないように多少は仕方ないのでは?」
なだめるように顎髭の男が言う。
「これくらいで腰を抜かすような娘ではなかろうよ」
三人目の声はヒバリの目の前からした。はっと二人から視線を戻すと、虎は姿を消して代わりにひょろりと背の高い男がヒバリを見下ろしていた。
ヒバリがきょろきょろと周りを見渡した範囲に、先ほどの虎の姿はない。その様子に、背の高いテンショウと呼ばれた男が興味深げに、無遠慮にヒバリを見詰めてきた。
「何だ? どうした」
「虎が……」
「何だ、お前はこちらの姿の方がお気に入りか?」
言うなり、テンショウの姿が消えて先ほどの大柄すぎる虎が現れた。ヒバリの目にはテンショウ自身が虎に変化したように見えた。
虎が目を細めてヒバリに一歩近づく。ヒバリが一歩後ずさると、虎は何かを考え込むように首をくいっと引っ込めた。そして瞬く間にあの背の高い男の姿になった。
「気に入ってくれたのではないようだな。ふむ。お前も変化してくれねばあの姿で話す事はかなわぬが……変化せぬという事はこちらの方が都合が良いのか?」
「確かにこちらの姿の方が話し合いには好都合だ。話せる言葉も多い」
「ショウギ、どうもこの娘は変化を知らないようなのだが……」
勝手に話を進めようとする背の高い男と体格の良い男に、顎髭の男が待ったをかける。
「何? 本当か、娘」
体格の良い男が眦をつり上げてヒバリに問うてくる。
ヒバリは一瞬身を竦ませたが、徐々に怒りに体が熱くなって解れてきた。どうしてここでそんな詰問をされねばならないのか、腹が立ってくる。泥棒風情にそんな横柄な態度に出られる謂われはないのだ。
「――出て行って」
「は?」
「出て行ってよ。あんた達を相手にする場所としてこの家があるんじゃない。お父さんとお母さんはそんなつもりで建てたんじゃない」
静かに告げて、静かにテンショウの急所を蹴り上げた。虎の姿ならいざ知らず、人の姿なら恐れる事はない。どこが的確にダメージを与えられるか、ヒバリはきちんと母から教わっていた。そしてその教えは正しかった。目の前で男が声もなく蹲り、残りの二人は微かに頬を引きつらせた。
「……さすが、オミナの娘だな……」
「生き写しの動きだ……」
目を逸らした二人はそれぞれ苦々しく呟く。それを聞いてヒバリは二人に同じ事をするのを止めた。
「お母さんを知っているの?」
「知っているも何も、オミナは私の叔母だ」
体格の良い男が言う。
「ショウギはお前の従兄になる」
顎髭の男が付け加える。
「……嘘」
「嘘なものか。正真正銘お前は私の従兄だ。ここに来たのもお前を村に連れ戻すためだ」
「連れ戻すって、私はここで生まれてここで育ったのに」
「だがその血は我が一族のものだ」
「本当かどうかも分からないくせに」
「分かるさ」
「娘、お前は恋をしたか?」
「は……?」
ショウギと呼ばれた自称ヒバリの従兄を制し、顎髭の男が言葉をかぶせる。思わぬ方向からの質問に、ヒバリは狼狽した。
「いや、まずはそこよりも……お前は人よりも耳が良い鼻が利くという事はないか? 力がある、走るのが速い、身のこなしが猿のようだと言われる、などだな」
「それは……」
村の人間に散々言われてきた。バケモノ屋敷に住んでいるバケモノじみたハズレの娘。それがヒバリの通称だった。村の人々はヒバリには聞こえないように言っているつもりだったが、それらは人よりも些細な音も拾ってしまうヒバリの耳にしっかり届いていた。仕方なく村に寄る時は本気で耳栓をしようかと考える程に常に囁かれている。
ますます狼狽えたヒバリの様子に、顎髭の男は満足げに頷いた。
「身に覚えがあるという顔だな。それで、恋をしたことは?」
またその質問に戻り、ヒバリは拳を握る。
「おじさんが口出しするなんて下世話すぎる」
「別に誰が好きになったかなどはどうでもいい。問題は好きになった相手に対してどんな衝動を抱くかだ」
「衝動……?」
「食べたくならなかったか? 比喩ではなく、直截的意味で、だ」
ヒバリは体を震わせた。それはまさしく今自分の身のうちで起こっている激情と葛藤だったからだ。アルと話していると、時折どうしようもなくアルの首に歯を立てて一気に血管を引きちぎって肉を裂きたくなる。そんな目で見てしまう自分が怖くなって、ここしばらくはアルから離れていた。
村人が言う「バケモノ」という形容は正しいのだと、ヒバリを打ちのめすのに十分な欲求だった。抑えても、落ち着いてきても、アルと話し始めるとその欲が再び鎌を擡げる。
思い出し、苦しさがこみ上げてきて唇を噛み締めたヒバリを満足そうに眺め、顎髭の男は大きく微笑んだ。
「思い当たるようだな。それこそが我が一族の血だ」
「……もしかして、私もこの人と同じで虎になってしまう?」
「なれるだろう。オミナの娘なら、美しい虎になれる」
作品名:好きだから、食べさせて 作家名:みや