(抜粋サンプル)魔法導師アレイスタ 欲望を狩る人
「あぁ、そりゃもうな。ラドーでは聖教会さえ一目置く──、そう、おそらく最も知られ、最も尊敬されている魔法導師だろうな。俺が子供のころにはもう、王家に仕えておられた」
職人の男が、うっとりするように言った。アレイスタは顎に手をやり、熱心に話を聴いている。
「さぞかし素晴らしい功績があるのでしょうね」
今度は正面の商人が大きく頷いた。
「もちろんです。──そう、ガルー・ダン=ギルほど、己の身を捨ててラドーに尽くす人物はいません。何しろあの方は、先程話題に出たディディエ王太子殿下に自らの左目を差し出した魔法導師、その人なのです」
「なんと……。それはすごい」
アレイスタは、驚きに目を見開いた。
「私にはとても真似できないな」
正直なアレイスタの言葉に、また周囲は大きく頷きあう。
「誰にも、あれほどの献身は不可能です。自身の死さえ恐れぬ勇気と、魔法導師としての高い知識と技術がなければ、とうてい成功しなかったのでしょう」
まるで高名な僧侶や司祭を崇めるかのような信望を目の当たりにして、アレイスタは感心した。しなやかな指を顎にやり、聞いたばかりの名前を、ひそやかに呟く。
「ガルー・ダン……。ガルー・ダン・ジョナス?」
「そう! そうです導師様、よくご存知で! 先ほどの叙事詩の、ラドー建国に貢献した伝説のダン・ジョナス=ギルの、ガルー様は最後の直弟子なのですよ」
国を治める魔法導師の名を讃えて、商人は自慢げに頷く。アレイスタは、繋がった名にかえってささやかな引っ掛かりを感じる。しかしそれは飲み込み、少々面白くなさそうに黙って酒を飲んでいる隣の導師に、そっと耳打ちした。
「これほど信頼されているとは、さすがは伝説のダン・ジョナスの名を継ぐ者。さぞかし立派な魔法導師なのでしょうな。都に着いたあかつきには、ぜひお目にかかりたいものだ」
「なぁに、色々と怪しい噂も絶えんよ」
「ほう、それは聞き捨てなりませんね。例えばどんな?」
「いやいや」
導師は、噂の魔法導師に心酔しているらしい周囲の様子を伺い、声を落とす。
「大きな声では言えんがね……。彼は、黄金蟲の研究をしているとか」
「──あの伝説の?」
「そう。都で同宿した導師殿に聞いた話だがね。遠目にもわかるほど、強大な魔力を持っておるとか。あれはとても人間の修業でどうこうできるものではない、神の黄金を手に入れているに違いない、と」
まことしやかに語られる伝聞に、アレイスタの眼が妖しい含みを持って輝く。
「それは……。ますますお会いしたいものだ――」
「あんたも黄金蟲には色気が出るかね」
「それはもう――。魔法に携わる者なら、黄金蟲に無関心でいられるでしょうか」
黄金蟲とは、死後の世界に住むという伝説の存在として広く知られている。冥府に向かう人間に巣食い、魂に残る欲望を糧とし、黄金の糞を落とす。それはこの世の理を具現化した物質であり、強大な魔力を持つ物として、『神の黄金』と呼ばれる。
常世ならざる世界の幻獣であるが、目撃譚も絶えない。黄金を生むという伝説が人の心を強く惹きつけるのだろう。増してや真理を志す魔法導師であれば、一度は憧れ求める存在である。
都へとはやる気持ちに、アレイスタは食事を終えた手を手桶の水で洗う。その頃を見計らってか、向かいの商人が申し出た。
「導師様方、ここは私に払わせて下さい。私は都で商いを営む卑しい身分ですが、ここでお会いできたのも何かのご縁。できればこの羊皮にお名前だけでもいただけたら、安いお初穂料でございます」
いつの間に用意したのか、金飾りの入った羊皮紙を二枚、差し出す。アレイスタが何か言う前に、隣の導師が声を荒げた。
「ふざけるな! 気高き我の名が、こんな紙切れに書ききれると思うのか!」
「も、申し訳ありません。もちろん、すべてなどとは望みません。ありがたい導師様のお名前であれば、五つ六つでも、十分家の魔除になります」
「ふん、まぁそれくらいなら、構わんわ」
「ありがとうございます。おい、こちらの導師様方にもう一本お持ちしてくれ」
「おお、これは気が効くな」
まだ膳の皿が片付けられていないアレイスタは、黙ってそのやりとりを見ていた。さて、自分はどうするかな、と考えながら。
多くの人々にとって、名前とは身分証明と同じである。形式は地域や身分によって異なるものの、人の名前には、出身地・身分・家名・両親や何番目に生まれたか等、その人の氏素性が刻まれている。そのうえ、節目節目に人から名前を贈られることも多い。そのために普段の生活では、必要な名以外は省略することが普通であった。
魔法導師はその粋たる存在であった。出身地や出生が不問となるかわり、代々師事してきた魔法導師の系譜が、おおよそすべて引き継がれていくのである。彼らも、通常の生活では二つ三つと省略して名を語る。しかし、実際には数十から百個以上の名前を持つ魔法導師は珍しくない。数はもちろん、その中に有名な名が多いほど、多くの魔力を得ることができる。魔法導師にとって、名前とは力の源なのだ。
隣の導師も、羊皮紙に収まりがいいように、十余の名前を書き記している。それを横目に見ているうちに、アレイスタの膳は引かれ、空いた場所にやはり羊皮紙が差し出された。
「お若い導師様もぜひ」
「いや、私は――」
アレイスタは、丁重に断ろうと手を上げた。が、商人の男は懐から花模様の小袋を出し封を開ける。
「こちらはささやかですがお弟子様に」
口から色鮮やかな菓子が見え、甘い匂いがあたりに広がる。それまで大人の会話に興味を示さなかったラスタスが、目を輝かせ激しく鼻を鳴らしよだれをたらして、甘い香りの正体を探す。
アレイスタは苦笑とともに観念し、それを受け取った。
「では、お言葉に甘えるとしよう」
小袋の封をしなおし、落ち着かない少年に手渡す。
「ラス、お菓子が食べたかったら、先に豆を残さず食べなさい」
師匠の厳しい口調に、少年の喜びがしぼんだ。パンと肉は平らげたものの、豆にほとんど手をつけていなかったのである。味付けのペーストも辛味以外は舐めつくしており、ラスタスは所在なく、薄味の豆を指先で潰してもてあそんでいたのだ。
もの言いたげな目で見上げてみるが、師匠は厳しく譲らなかった。諦めたらしいラスタスは、渋々と自分が潰した豆ペーストを一かけら口に入れる。
「では、私は単名(ひとつな)であるので、こんな大きな紙では収まりが悪い。そのかわりに商売繁盛を祈る詩編を書かせていただこう」
アレイスタの言葉に、同席者らが驚く。特に一筆を願い出た男は、顔色を変えた。
「単名?」
「えぇ」
アレイスタは、なんでもないことのように頷いた。その様子が居直りのように見えたのか、なお周囲は狼狽する。名を記し終わった隣の導師も、呆れた顔でアレイスタを見て呟く。
「こりゃまた、悪い冗談だ」
「こんな席で冗談など」
「…………」
慣れたこととはいえ、アレイスタは内心ため息をつく。
作品名:(抜粋サンプル)魔法導師アレイスタ 欲望を狩る人 作家名:蒼戸あや