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(抜粋サンプル)魔法導師アレイスタ 欲望を狩る人

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 確かに、魔法導師にとっての名前とは力の源である。だからこそ、複数の名前を持たない魔法導師は希有であった。一般の人々に広く信仰を広げる聖教会の教典と違い、魔法の伝導の多くは今も師弟間の口伝に頼っている。そんな中で師の名を持たないのは、破門を受けた山師と思われても仕方のないことだ。
 不審がられているからといまさら謝礼を返すわけにもいかないので、アレイスタはみあうだけのまじないの詩篇を、念を込めてしたためた。ただし、署名はしないで。
 ところで、アレイスタの横で、ラスタスはいまだに豆ペーストと格闘している。肉とパンで十分満腹になった彼は、豆にもう心底うんざりしていた。膝の上から香るお菓子を思うと口の中はよだれでいっぱいだが、どうにも豆を口に運ぶ気になれない。無駄に、ペーストを粘土のようにこねくりまわし、いつの間にか小さな蛙の形を作っていた。豆の緑色が、連想させたのかもしれない。
「ラス。食べ物で遊ぶものじゃない。さっさと食べなさい」
 頭上から師匠の厳しい声に急かされても、無言で恨めしそうに眺めるばかりだ。
 ふいに彼は、深く長い息を噴出した。ため息のようなそれは低く、豆ペーストを掠めていく。途端に、蛙型だったものは生き生きとした青蛙となり、皿の上のみならず、テーブルから庭に跳び出した。
「ぅわっ!」
「きゃあ!」
「! ラスタス!」
 テーブルの周りにいた人々が、驚いて身をすくませる。予期せぬ悪戯にアレイスタさえ驚くと、ラスタスも慌てて蛙を追いかけた。
「……いや、なんとも……、奔放な弟子で…………。お恥ずかしい……」
「あぁ、いえ――。幼いのにご立派なお弟子様でいらっしゃる」
 真上にあった太陽が僅かに傾きかけた頃には、宿の前庭も随分と人が減っている。羊皮紙のインクが乾いたのを見計らい、商人一家も複雑な感謝とともに、都へ向かって旅立った。職人の男も去り、テーブルには、まだ酒の残っている魔法導師とアレイスタだけが居座っている。
「あの主人をがっかりさせてしまったようだ。せっかくいい酒を奢ってもらったのに」
「単名じゃな」
 男は、まだまだここに居座るつもりらしい。宿の娘にまた酒の追加を頼んでいる。
 前庭の隅では、ラスタスが彼の上下ほどの年の姉妹に、蛙を見せている。定着することのない旅暮らしだからか、彼はほとんど人見知りをしない。けれどすぐ姉妹は母親に呼ばれ、前庭を後にした。親子の仲睦まじい背中を、少年は黙って見送っている。
「あんたも変わってるな。自分から単名などと――。名前なんぞ、どうとでもなるだろうに」
「源でない名前など何の力も持たない」
 ほどほどに酒の回った男の言葉に、アレイスタは少々意地悪く笑った。
「貴殿も先人の力を頼るなら注意された方がいい。先ほどの貴殿の名、老シメオーニとクレーデンが逆になっておりましたよ。それにいくつか綴りの過ちも。もっとも、半端に力のある名であればかえって妖しも引付けようが、あれではただの紙切れ。かえってあの主人にはいいかもしれません」
 ほろ酔いだった男の顔色が変わった。不穏な視線を、アレイスタは受け止め、微笑を浮かべている。
「あんた――」
 男が何か言おうとしたとき、ラスタスが顔色を変えて駆け寄ってきた。ベンチに膝立ちになり、アレイスタに耳打ちする。
「お師様、血の匂いがします」
「なんだって? 人間のか?」
「はい。この先の森からです」
「何人もか?」
「いいえ、一人です。でも強い――たくさん出ています。それに妖獣もいます」
「では放ってはおけんな。まだ酒が残っておりますが、道中を急ぐ身。おいとまいたします」
 アレイスタは、簡単に男に頭を下げ、立ち上がった。自ら馬止めに足を向け、雷号を引いて庭に出る。街道前で跨ると、鞍の背にラスタスが飛び乗った。
 今にも駆け出そうという手綱を、伸びた腕が引いて止める。酔いで顔を赤くした導師だった。
「悪いことは言わん。あんたも引き返したがいい」
「それはまた。ラドーに恐ろしい妖魔侯爵でもおりましたか?」
「いやいや、そんなもんじゃない」
 男の目は、これまでになく真剣だった。
「ラドーのガルー・ダン=ギルは、噂に違わぬ魔法導師だ。わしはこれでも多少の魔法はかじったからわかる。恐ろしい、本物の魔法導師よ。わしらみたいな似非導師とは格が違う。
 あんなのが牛耳っとる都で一旗などとんでもない。ましてやあんたみたいな単名など、会う前にしょっぴかれるに決まっとる」
 一気にまくし立てた唇が青褪めわずかに震えているのは、酒浸りの生活のせいだけだろうか。
「ご忠告ありがとうございます。しかしそう聞けばますます、私は行かねばならない」
 鞍に乗っているラスタスが、背後から耳打ちした。
「お師様! 血の匂いが増えています。それに瘴気の臭いも……きっと妖獣です」
「声は聞こえるか?」
 ラスタスは首を左右に振る。
「俺、先に行ってます!」
 そう言った途端、ラスタスは飛び降り駆け出した。
「ラス! 様子を見るだけだ! すぐに追いつくから私を待っていなさい!」
「大丈夫です! 俺は妖獣なんかに負けません!」
「馬鹿を言うな! 手出ししてはならん! 必ず、見つけたらまず戻ってきなさい! いいな!」
 人々の足元をすり抜け、たちまち姿が見えなくなってしまった。
 アレイスタは改めて微笑を浮かべ、力強い手で、手綱から男の手を離させる。
「では、我々は先を急ぐので失礼します。貴殿にも幸運が訪れますように、ごきげんよう」
 手綱を引くと、雷号は風を切って駆け出した。背後でまだ言い募る声を置き去りにして。