虫めずる姫君異聞・其の二
公子は眼前の光景に固まった。
帝が布団に仰向けに倒れ、ぐったりとしていた。
―まさか、私が殺して?
公子は怖ろしい予感に震え、急いで帝の顔へと耳を近付ける。幸いなことに、規則正しい呼吸は失われてはおらず、胸の鼓動も確かな律動を刻んでいた。
思わず安堵の吐息が洩れ、公子はその場にへなへなとへたり込む。大嫌いな男、自分の身体を力尽くで陵辱しようとした卑劣な男ではあっても、何も殺したいと願ったわけではなかったのだ。
恐らくは一刻、気を失って昏倒しているだけなのだろう。だとすれば、逃げる機会は今しかない。帝が意識を回復する前に、ここから逃げ出さねばならない。
公子は唇をきつく噛みしめた。動揺などしているときではない。きちんと現実を見極めなければ。
公子はそろりと身体を動かし、立ち上がった。しどけなく開いた胸許をかき合わせると、手早く帯を結ぶ。急い御帳台を出た。幸いにも先刻は閉まっていたはずの両開きの木戸は今度は軽く内側から押しただけで難なく開いた。
戸を細く開けて、廊下に誰もおらぬのを確認した上で、身を滑らせるようにして夜の御殿から出た。
その時。
「姫ッ」
帝の声が背後で聞こえ、公子は蒼褪めた。身体中の血が音を立てて引いてゆく。
まさか、こんなに早く見つかってしまうなんて。
「おのれ、この期に及んでもまだ逃げるか」
血走った双眸をカッと見開いた帝の表情はまるで猛り狂った手負いの獣のようだ。どうやら、今の帝は何としても公子の身体を我が物にすることしか考えられないようだった。
なまじ美しい男だけに、怒りに猛り狂う様は凄絶ささえ漂わせている。
「いや、いやーっ」
公子は泣きながら廊下を走った。
「助けて、誰か、助けて」
誰でも良いから、私を助けて。この男から私を奪って、連れて逃げて欲しい。
すぐ後ろから帝が喚きながら追いかけてくる。公子は恐怖と絶望に押し潰されそうになった。帝と公子では所詮、比べものにならない。直に追いつかれ、公子は捕らえられてしまうだろう。そうなれば、今度こそ、公子は有無を言わさず閨に連れ戻される。
夢中で走っている中に、公子はよろめき、脚をすべらせた。自分の身体がゆっくりと傾いでゆくのを、公子はあたかも他人事のように感じながら、廊下から落ちていった―。
ふと現実に戻った時、公子は清涼殿の庭にいた。どうやら、廊下から落ちた後、帝に見つかるまいと走りに走って無意識の中に鬱蒼とした樹々が重なり合って作る翳の中に逃げ込んだらしい。
ここは庭の隅で、廊下で所々焚かれている篝火の明かりも届かない。夜の闇が凝って更に深い闇を作り出しているような場所だ。ここまで逃げ延びることができたのは不幸中の幸いだった。
―大丈夫、御仏はまだ私を見放されてはいない。
そう思うと、公子は少しだけ勇気が湧いてきた。しかし、現実として、これからどうすれば良いのかは判らない。このまま隠れ続けることは無理がある。夜の深い闇が身を隠してくれる中はともかく、朝になれば、すぐに見つかってしまう。
帝は生来、冷酷非情な気性だ。それに加え、公子は帝に抵抗し、香炉で帝を殴りつけ、あまつさえ二度も逃げ出した。今度見つかれば、到底ただで済むとは思えない。
一体、どんな仕打ちを受けるかと想像しただけで、恐怖に身体が戦慄く。だとすれば、ここから何としてでも脱出するしかないのだけれど、どうやって逃げれば良いのか。
公子は途方に暮れた。
そろそろ桜の花の蕾が綻ぶ時分だが、真夜中は流石に冷える。薄い夜着一枚きりでは余計に寒さと夜風の冷たさが身に滲みた。
公子の眼に新たな涙が滲んだその時、突如として手前にぼんやりとした灯りが浮かび上がった。夜の闇に滲む灯りは宮廷警護の武士か、あるいは宿直(とのい)の公卿のいずれかに違いない。
公子は恐怖に色を失い、身体を震わせた。
次第に近付いてくる灯りが真っすぐに公子の顔を照らし出す。
公子はあまりの眩しさに、一瞬顔を背けた。
ほどなく紙燭を掲げ持った若者の姿が闇の中から現れた。愕いているのは公子の方だけではなく、相手も同様なのだろう。
公子は身を強ばらせ、ふいに出現した若い男を見つめた。男は二十五、六にはなるだろう、長身のなかなかに整った顔立ちの若者だった。そのいでたちから、かなりの身分の貴族だと判る。
「あなたは―」
男が茫然と呟くと、公子は男に夢中で頼んだ。
「お願いでございます、どうか私を見逃して下さいませ!」
男の貌に戸惑いの表情が浮かぶ。
「あなたにご迷惑はおかけしませんから、どうか私を見逃して」
訴えている中に、涙が溢れてきた。見ず知らずの男の前で泣くのは恥ずかしいことだと自らを戒めつつも、公子は一度溢れ出した涙を止めることはできない。
それも無理はなかった。皇太后安子の見舞いと称して参内したその日から今日まで、あまりにも色々なことがありすぎた。考えてみれば、半月近くもの間、ずっと後宮のひと部屋に閉じ込められていたのだ。
「あなたは、もしや」
地面に座り込んだままの公子に合わせるように、男もまた地面に片膝をつく。
夜よりも深い瞳に見つめられ、公子は思わずうつむいた。
「今宵、主上のご寝所に侍るはずであったご愛妾が突如としていらっしゃらなくなったと宮中では今、大騒ぎになっています」
〝ご愛妾〟―、その言葉に公子は眼の前が真っ白になった。
「私は、私は主上の愛妾などではありません」
公子は震える声で訴えた。
大粒の涙が滴り落ち、地面に黒い染みを作る。夜目にもその染みが点々と刻まれているのが見える。
男は公子の心中を察したらしく、すぐに詫びた。
「申し訳ありません。私の言葉が足りませんでした。あなたのお心を傷つけたのなら、許して下さい」
直截に謝られ、公子は力なく首を振る。
構わないのだという意思表示のつもりであった。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の二 作家名:東 めぐみ