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虫めずる姫君異聞・其の二

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 十五年前、初めて帝と出逢ったその日の光景が瞼に甦る。平然と虫を踏み潰した後、あの敵意を露わにした眼(まなこ)には、ひとかけらの後悔すら浮かんではいなかった。確かに毛虫は大抵の人間が嫌うものだが、何の躊躇いもなく殺したことを他人から指摘されれば、また、大概の者はいささかなりとも良心の呵責を感じるのが普通だろう。
 この冷酷な男は、あの頃と少しも変わってはいない。虫だけでなく、一人の人間である公子をでさえ、意思を持たぬ人形であるかのように扱い、その心を無視して強引に無体なふるまいに及ぼうとしている。
―こんな男は厭!
 そう思った刹那、公子の心の内側をこの男への嫌悪が突き抜けた。
「そなたに叩かれたのは、これで二度めだ」
 帝が感情のこもらぬ声で言う。
 幼き日、雪柳の花びらが舞う庭で、やはり、こんなことがあった。あの時、帝は八歳、公子は九歳だった―。あのときも公子は〝醜女〟と心ない言葉を投げつける帝を力任せに殴ってしまったのだ。そのときのことを言っているのだと、公子にもすぐに判った。
 別段怒っているようにも見えなかったけれど、この湖のように静まり返った表情がかえって底知れず、怖ろしい。
「そなたには魔が潜んでいる。そのことに、そなたは気付いているのか? 公子」
 いきなりの言葉に、公子は眼を瞠った。
 帝の科白の意味を理解できなかったのだ。
「無邪気な虫も殺さぬ顔、可愛らしい顔をしていながら、ほれ、そのように淫らに男を誘う」
「私が男を誘う―?」
 公子は茫然と呟いた。
「そうだ、そなたは知らずにしていることであろうが、そうやって俺を拒めば拒むほど、俺はそなたを欲しい、抱きたいと思うようになる。先刻も申したはずだ、男はとことん刃向かわれれば刃向かわれるほど、獲物を征服したいという支配欲、所有欲に駆られるものだと。―それとも、何か、そなたは判っていて、わざと俺を煽っているのか、それがそなたの手管なのか」
「そんな、私は誘ってなどいません」
 何という酷い言葉だろう。
 本当に厭だから厭だと言っているだけなのに、この男はそこまで言うのか。
 尖った言葉で公子をこれでもかと言わんばかりに容赦なく徹底的に傷つけるのも昔と変わらない。
「こうなるのも、そなたがすべて悪いのだ。その無邪気な瞳、愛らしい唇で男を惑わす淫乱な女」
 帝の手がスと差し出される。掌が公子のやわらかな頬にそっと触れた。
 凍てついた手がつうっと公子の頬をすべる。思わずゾッとするほど冷たい手だ。まるで触れられたその箇所から氷と化してゆくのではないかと思ってしまうほどに。
 こんな男にはたとえ指一本たりとも触れられたくない。そう思った瞬間、思わず頬に添えられた手を振り払うと、案の定、男の顔色は濃くなり、さっと険しいまなざしになった。
「どのように申し聞かせても、俺に靡く気はないらしいな」
 帝がふいに公子の手を掴んだ。
 強い力でグイと引き寄せられ、公子は呆気ないほど容易くその逞しい胸の中に倒れ込む。思いがけず男の胸に頬を押しつける形となってしまった。
 狼狽して離れようとした公子の背にすかさず帝の手が回る。
「諦めろ、今宵、そなたは俺の女になる。それがそなたの運命なのだ、姫」
 耳許で熱く濡れた声が囁いた。
「い、いやっ」
 公子は逃れようと夢中で抗う。軽々と抱き上げられ、御帳台まで運ばれてゆきながらも公子は必死で助けを求めた。
「誰か、来て! 助けてえ、助けて」
 涙が再び溢れ、夜気に溶けて散る。
 いつしか陽は完全に落ち、気紛れな夜がこの世を支配していた。夜の帳がこの静まり返った閨にもひそやかに降りている。
 帝は几帳をめくると、手慣れた様子で抱きかかえてきた公子を無造作に夜具に落とした。背中から布団に落とされた拍子に腰をしたたか打ち付けてしまったらしく、鈍い痛みが走る。
「痛―」
 小さく呻くと、帝が公子の顔を覗き込んだ。
「どれ、俺が撫でてやろう」
 いきなり手で腰から尻をなで回され、公子は悲鳴を上げた。
「止めて、触らないで」
 ふと帝の視線が自分の脚に注がれているのを見て、我に返る。烈しく抵抗したために、薄い夜着の裾が捲れ上がって、白い脹ら脛が露わになっていた。
 舐めるように脹ら脛を見つめる帝の視線が怖い。公子は狼狽え、乱れた裾を直そうとする。
 この期に及んでも、公子はまだ帝が何をしようとしているのか判らなかった。ただ、嫌らしげな眼で眺められたり、不躾に身体を触られたりすることへの本能的な恐怖を感じていたにすぎない。
 その時、突如として上からのしかかられ、公子はまたしても叫び声を上げた。
「あっ」
 唇を重ねられ、公子は愕き、抵抗した。
―どうして、どうして、こんなことになってしまうの?
 恐怖と混乱の中で、公子は絶望のただ中に突き落とされた。
 帝は公子の心など頓着することもなく、ただ己れの欲望のままにふるまっている。今の彼の頭の中には公子の身体を自由にすることしかないようだった。
 呼吸さえも奪われるかのような烈しい口づけは延々と続いた。男の舌が公子のわずかに開いた唇の間から侵入してくる。そのあまりのおぞましさに、公子は夢中で唇を固く引き結び拒んだ。
 深く唇を結び合わせながら、男の手が夜着の上から乳房をそっと包み込む。やわらかな感触をそっと上から確かめるように押され、その輪郭をなぞられる。その刹那、得体の知れない―嫌悪感とも違う妖しい震えが腰から下腹部にかけて走り、公子は戸惑った。
 公子の眼からとめどなく溢れる涙が錦の夜具をしとどに濡らす。前結びになった帯がするすると解かれた。衣擦れの音が妖しく夜の底に響く。グイと合わせを開かれると、ひんやりとした夜気が膚に纏いついてきた。
 けして大きくはないけれど、形の良い双つの膨らみが夜陰にほの白く浮かび上がっている。しばらく暗い愉悦を宿した瞳で公子の胸を見つめていた帝が口の端を引き上げた。
 その顔が近付き、公子の胸に覆い被さる。
 刹那、公子の唇から絶望の声が洩れた。
「どうして、どうして、こんなこと」
 自分が何をしたというのだろう、どうして、こんな酷い目に遭わされなければならないのだろう。この男が自分を愛しているというのは、きっと嘘だ。愛しているのであれば、こんな風に力尽くで己れの欲望を遂げようとはしないはず。
 そう思った途端、やるせなさと哀しみが公子の心に押し寄せた。
 ずっと乳房を吸われ続けているのも気持ち悪い。公子は泣きながら、虚ろな視線を周囲に彷徨わせた。ふと枕許に青磁の香炉が置いてあるのが視界に入った。涙で朧に滲んだ視界の中で、青磁の香炉がどれほど離れた場所にあるのかを懸命に推し量ろうとする。
 思い切って手を伸ばしてみると、指先が香炉の脚に辛うじて触れた。公子は夢中で更に手を伸ばし、香炉を掴む。今度は、はっきりと香炉の脚に触れることができた。
 その瞬間、公子は掴んだ香炉を思いきり振り上げた。ガツンと鈍い小さな音が聞こえた。
 公子は最初、何が起こったのか判らなかった。しばらくその場に茫然と座り込んでいた。ハッと我に返った時、随分と長い刻が経ったようにも思えたけれど、実際にはたいした刻は要してはいなかっただろう。