虫めずる姫君異聞・其の一
それは嘘ではない。
他ならぬ公子自身がこの世の無常を痛切に感じた瞬間でもあり、それが祐子やその二人の御子の早すぎる死を知った際の公子の正直な気持ちだったはずだ。
「桐壺更衣にしろ若宮、姫宮にしろ、可哀想なことをしました。されど、あなたの言うとおりですね、公子どの。残された者がいつまでも哀しんでばかりいては、亡き人は安らかな眠りにはつけぬ。確かにそうなのかもしれません。今日これよりは、少しずつ、哀しみも忘れてゆくように努力することに致しましょう。たとえ難しくとも、もう涙は流さず、代わりに亡き人たちの安らかな眠りを一心に御仏にお願いし、祈ることに致しましょうね」
安子の力強い言葉に、公子は深く頷いた。
「はい」
心なしか蒼褪めていた安子の頬にかすかに赤みがさしているように見える。光を失った瞳にも僅かに力が戻っているように見えた。
こんな自分でも、安子の心の哀しみを少しでも軽くすることができたのだろうか。もし、安子がいささかなりとも元気を、生きる力を取り戻してくれたというのであれば、公子にとって、これほど嬉しいことはない。
公子がそう思ったときのことだった。
几帳の外が俄に騒がしくなった。
女房たちのひそひそと囁き交わす声、かすかな衣ずれの音が伝わってくる。
ほどなく、年配の女房の狼狽えた声が外から聞こえてきた。公子をここまで案内してくれた古参の女房だ。
「お話し中に、失礼致します。主上(おかみ)がお渡りになられましてございます」
その言葉を聞いた刹那、公子は身体中の血が音を立てて流れ出したような気がした。
―何ということ。
よもや、ここまで来て、帝に逢うことになるとは思いもしなかった。迂闊だった。内裏に来れば、そこに住んでいる帝に逢う可能性もあることは判り切っていそうなものなのに、大宮御所と清涼殿は遠く離れているゆえ、そんなことなど考えてもいなかったのだ。
しかし、よくよく考えてみれば、帝と安子はれきとした母子なのだから、さしたる用事があろうとなかろうと、帝がふいに思い立って母后をおとなうことがあるのは別段不思議なことではない。何故、そんな当たり前のことに思い至らなかったのかと、我が身の思慮のなさがつくづく恨めしい。
一番逢いたくない男に逢ってしまった。その衝撃は隠せず、公子は蒼褪め、身体が知らず強ばるのをどうしようもなかった。
そんな公子を安子が訝しげに見つめていることにも気付かない。
「今日は珍しい客人が来ていると聞き、こうしてお伺いしましたよ」
ほどなく几帳が捲られ、一人の公達が姿を見せた。蘇黄色の直衣には龍の意匠が全体的に金糸、銀糸で織り出されている。白皙の美貌は男性ながら妖しいまでに美しく、これほどに美しい男を公子はこれまで眼にしたことはなかった。
かと言って、けして女性的な容貌というわけではない。男性的な雄々しさや凛々しさと、艶やかな色香溢れる美貌がほどよく調和しているといった感じだ。しなやかな体軀は直衣の上からでもその逞しさを感じさせ、帝が学問よりはむしろ武芸の鍛錬に力を入れているという噂はあながち偽りではないのだということを何より物語っている。
「お久しぶりですね、姫」
これは母君ではなく、公子に向けた科白であることが判る。
「そのようなお言葉を賜るとは、畏れ多いことにございます。私の方こそ、ご無沙汰致しておりまする」
公子は言葉と態度だけは慇懃に、しとやかに手を付いた。
「それにしても、母上、姫とのお話がよほど愉しかったようですね。お顔の色がいつになく良い」
帝が抑揚のある声で言う。
間近で見ると、確かに幼き日の面影が眼許辺りに残っている。声はやはり記憶にある幼い頃の少年のものではない。聞く者を魅了するような深い声になっていた。
この青年が夜毎、内裏の若い女房を閨に引き込み、大切な儀式の最中に控えていた女官を手込めにしたという悪評高い帝と同一人物なのか?
どう見ても、そんな無体なふるまいをするようにも見えず、良識と分別を兼ね備えた大人の男に見えるが―。
息子の言葉に、安子は嬉しげに口許を綻ばせる。
「ええ、姫は昔と変わらず優しいのです。姫と話したお陰で、むすぼれていた心が随分と軽くなりました」
「そうですか、それは良かった。左の大臣に頼んで、姫に来て貰った甲斐がありましたね」
帝は鷹揚に頷くと、公子の方はちらと見もせずに言った。
「ところで、ご歓談の最中に申し訳ありませんが、姫と二人だけで話をさせて頂けませんか。母上」
刹那、公子の眼が見開かれた。
「あの、それは―」
自分は何もこの男に逢いにきたわけではない。叔母である安子の気散じになればと、父に命じられて参内したにすぎないのだ。
突然現れて、何を言い出すのだ、この男は。
こう言った我が儘で身勝手なところは少しも昔と変わらない。見かけだけはひとかどの好青年になったようでも、やはり内面までは変わらなかったのか。
公子が落胆にも似た想いを噛みしめていると、安子が困惑した貌で呟いた。
「されど、それは姫の意向も訊ねてみなくては」
が、帝は母の言葉など端から聞くつもりはないようだ。
「私は、もう随分と長い間、大宮さまとお話させて頂きました。大宮さまのお健やかなお顔を拝し奉ったことでもありますし、今日はこれにて失礼させて頂きます」
公子が控えめだれど、きっぱり言うと、帝の視線が初めて公子を捉えた。
その酷薄なまなざしに射竦められた刹那、公子の身体は金縛りに遭ったように動かなくなった。冷え冷えとした視線に見つめられると、身体だけでなく心の芯までもが凍ってゆくようだ。
―まるで蛇に睨まれた蛙。
公子は我が身のことなのに、何故か他人事のように今の状況を認識していた。それほどに、公子にとっては受け容れがたい現実であったのだ。
「母上」
帝がひと言強い語調で促すように言うと、安子は仕方なくといった様子で立ち上がった。
「公子どの、また近い中に姿を見せて下さいね。今日は久方ぶりに心愉しい刻を過ごせました。ありがとう」
安子は公子には笑顔を見せたが、去り際、一瞬だけ気遣わしげに帝の方を窺い見た。
それでも、衣擦れの音をさせて御帳台から出て、更に几帳の向こうへと去ってゆく。
安子と入れ替わるように、几帳越しに控えめに言上する者がいた。その嗄れた声から、公子を案内したのと同じ年老いた女房であると知れる。
「主上、畏れながら、急ぎご対面の場をご用意致します」
通常、深窓の姫君と言葉を交わす場合、たとえ相手が帝であろうと、御簾越しに行うものである。成人女性と男が御簾や几帳といった隔てもなしに直接言葉をやりとりするなど、女性の方に対してはなはだしく失礼なことで、女性を軽んじていることになるのだ。
それゆえ、皇太后が女房に急遽、座をしつらえるように命じたのだが、それに対し、帝はにべもなく返す。
「その必要はない」
「さりながら、皇太后さまがそのように仰せでございます」
なおも女房が言うと、帝は先よりも更に険しい声で突っぱねた。
「良い」
低い声に、老いた女房はハッとしたようだ。
几帳の向こうで慌てて顔を伏せ、平伏した。
「承知仕りました」
作品名:虫めずる姫君異聞・其の一 作家名:東 めぐみ