虫めずる姫君異聞・其の一
まさか、その父が帝の寵を一身に受ける桐壺更衣祐子やその御子たちを呪詛していた―、そんな怖ろしき噂が一部で真しやかに囁かれているとは想像だにしない公子であった。
「大宮さまのお嘆きの因(もと)もそこなのだ」
父の言葉に、公子はさもありなんと納得する。
「それは当然のことにございましょう。何といっても、大宮さまにとっては初めてのお孫さま方ですもの。どれほどお嘆きか―、お察ししただけでも、胸が痛みます」
「ならば、大宮さまのお見舞いに行ってくれるか」
その言葉に、公子は頷いた。
「私が参上することで、大宮さまのお心が少しでも軽やかになって下されば嬉しうございます」
「そうか、ならば、一日も早い方が良い。明日にでも早速、お訪ねしてみてくれ」
道遠は満足げに眼を細めて頷いた。
夕刻からまた参内せねばならない用事があると、父はまた慌ただしく出かけていった。
道遠がいなくなった後、公子は高坏に盛られた干菓子を所在なげに見つめていた。
指先でつまんで口に放り込むと、ほんのりとした甘みがひろがってゆく。菊の形をしたこの干菓子が公子は幼い頃から大好きだった。
物心つくかつかぬ中に生母を喪った公子にとって、母と呼べるのは数年前に亡くなった乳母と、幼時に娘のように可愛がってくれた大宮だけであった。皇太后という立場上、再々逢うことは叶わなかったけれど、帝が幼少の頃は、行幸・行啓という大袈裟なものではなく、安子は帝を連れてよくこの屋敷にも遊びに来た。
一緒にひいな遊びをしたりしたのも愉しかったけれど、大宮は公子が庭で捕まえた虫や蛙を見せても、愕きもせず、ただ微笑んで見つめていて、特に叱りもしなかった。風変わりな子だと変な眼で見ることもなかったのだ。
大宮に優しくして貰ったあの頃の記憶は、今でも懐かしい想い出として心の奥底にある。あの優しかった叔母が立て続けに孫を失い、悲嘆に暮れているという。
もし、こんな自分でその御心をお慰めすることができるのであれば、少しでもお役に立ちたいと思う。
公子は無意識の中につまんだ二個目の干菓子を高坏に戻した。大好きな干菓子も今日ばかりは、食べる気にもなれない。つい少し前、庭で咲き誇る雪柳を見て、少し早い春を満喫していたときの弾んだ心も萎んでしまった。
ふと、妙案が閃いた。
明日、参内するときは、あの花を持ってゆこうと考えたのだ。あの可憐な花を差し上げれば、大宮の沈んだ心も幾ばくかは晴れるのではないか、そんな気がした。
公子の瞼に、雪のように風に舞う白い花びらが甦る。
折しも大宮と最後に逢ってから―、つまり、あの憎らしい年下の従弟、帝と喧嘩別れをしてから十一年という長い年月が経っていた。
公子の運命の歯車が音を立てて回ろうとしていた。
弐の巻
公子が参内したのは、その翌日のことである。父道遠に命ぜられるままに内裏におわす皇太后安子を見舞いに訪れたのだった。
たとえ血縁上は近しい叔母と姪の間柄とはいえ、相手は御国母、帝のご生母である。しかも、幼い頃は娘も同然に可愛がられたといっても、公子はもう安子に十年以上も逢ってはいない。いきなり見舞いと称して現れ、馴れ馴れしい態度を取るのもはばかられた。
大宮御所と呼ばれる一角が、安子の住まいになる。公子はその日、萌黄の襲を身に纏っていた。芽吹いたばかりの新鮮な黄緑色の衣(きぬ)が公子の初々しさをいっそう引き立てている。
公子の両腕には、白い小花をたわわにつけたひと枝が大切そうに抱えられている。左大臣家の庭から今朝方、伐り取られたばかりの雪柳である。
部屋の前に二人の若い女房が神妙な面持ちで畏まっている。部屋に脚を踏み入れる前に、公子は抱えてきた花をその中の一人の女房に渡した。
先導の女房に案内され部屋に入ると、公子は、まずは両手をついて丁重に型どおりの挨拶を述べた。
「よく来てくれましたね」
安子は几帳を引き回した御帳台に座していたが、公子をひとめ見るなり相好を崩した。
公子は、更に長らくの無沙汰を詫びる言葉を口にする。
安子は、ゆるりと首を振った。
「あなたと私の間でそのように堅苦しい挨拶は無用です。それよりも、早く顔を見せて下さいな」
安子の言葉に、公子は僅かに面を上げる。
久方ぶりに見る安子は、子どもの頃に見たままであった。到底三十七には見えず、整った眼鼻立ちもいささかも変わらず、華やかな美貌はそのままに、皇太后としての気品と風格がその挙措にもよく表れている。
ただ、桐壺更衣の死と幼き皇子・皇女の相次ぐ死を嘆き続ける日々を過ごしてきたためか、美しい眼許には隈が出来、頬の線も鋭角的になって、その美貌にも凄絶さが加わっていた。
だが、安子の方は念願の公子の参内にいっとき、哀しみと憂さも忘れたようである。
美しい貌に笑みを浮かべ、親しげに話しかけてくる。
「まあ、すっかり娘らしく綺麗におなりになったこと。さあ、もう少し近くに来て、もっとよく顔を見せて下さい」
言われるままに公子は膝行し、安子の御前にゆく。
安子はしばらく姪の貌を見つめていたかと思うと、そっと袖を目頭に当てた。
「何年ぶりになるでしょうか、確か、あなたに最後にお逢いしたのは、左の大臣(おとど)の屋敷においてでしたね」
そう言うなり、込み上げるものを抑えかねたのか、絶句する。
しばらくはその場に沈黙が満ちた。
公子は何も言わず、ただ黙って安子の次の言葉を待った。こんなときは、自分から話しかけるよりは、安子が何か口にするのを待った方が良い。人は哀しみや苦しみを抱えている時、自分以外の誰かに積もる胸の内を打ち明けるだけで、心が幾分かでも軽くなるものだ。
沈黙はやがて安子の唐突な言葉によって破られる。
「こうしてあなたのお顔を見ていると、十一年もの刻を隔てているような気がしません。不思議なものですね。これが血を分けた肉親の情愛というものでしょうか。私にはご存知のように娘がおりませんし、私は昔からあなたを娘のように思うていたのですよ」
「畏れ多いお言葉にございます」
公子が返すと、安子は微笑んだ。
「ほら、また、そのように他人行儀な物言いをなさる。私とあなた二人だけのときは、せめて、そのような水臭い言葉は使わないで下さいな。昔のように、叔母上と呼んで構わないのですから」
「叔母上さま、この度の御事、私も存じ上げております。父からも叔母上さまがたいそうお嘆きだとお聞きし、このままでは叔母上さままでもがご体調を崩しておしまいになられるのではないかとご心配申し上げておりました」
公子の心からの言葉に、安子の眼に涙が光った。安子はしばらく何かに耐えるような表情をしていたが、次の刹那、公子の身体はふわりと安子の腕の中に引き寄せられていた。
突然のなりゆきに、公子は付いてゆけない。
ただ愕いて身を固くするだけだ。
公子を抱きしめ、安子は低い嗚咽を洩らした。
「叔母上さま―」
やっとの想いで口にすると、安子が涙を拭いながら微笑む。
「愕かせてしまって、ごめんなさいね。あなたを見ていたら、つい昔のことを色々と思い出してしまって。私も歳かしら、近頃、恥ずかしいくらい涙脆くなってしまって」
作品名:虫めずる姫君異聞・其の一 作家名:東 めぐみ