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虫めずる姫君異聞・其の一

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 が、それを悔やんでみたところで、今更、致し方のないことだ。父道遠は、いつまでも嫁ぎもせずにいる娘に格別悪い顔もしないし、早く結婚しろとも言わない。ただ黙って見守ってくれているだけだ。そのことを、公子はどれだけありがたいと思っているか。これが世の並の親ならば、早く婿を迎えなさいと毎日、矢のような催促だろうに。
 父は父で、口さがない噂の的となっている公子を不憫に思っているのだと、公子はよく知っている。公子は、どこまでも父を信じているのだ。が、確かに道遠が公子を哀れに思っているのは事実だが、それがすべてというわけではない。結局のところ、どこに嫁がせたくとも叶わぬ娘の将来を端から諦めているのだ。
「ところで、姫。一つ頼みがあるのだがな」
 唐突に言われ、公子は小首を傾げた。
「実は、姫の許を訪れたのもそのためなのだ」
 道遠に促され、公子は御簾を巻き上げて、部屋の内に戻る。父娘の間ゆえ几帳を引き回したりすることもせず、打ち解けて話すのはいつものことである。
 道遠は、胡座をかいて肘を片膝に載せた。
 頬杖をつくような恰好で、公子をじっと見つめる。
「大宮さまの御事なのだが」
「叔母上さまがどうかなされたのでざいますか」
 公子は俄に表情を引きしめる。
 大宮というのは、道遠の妹安子(やすらこ)である。今年、御年三十七になられる。今を去ること二十二年前、先帝の後宮に入り、女御となった。その三年後、春宮をお生み奉り、更に次の年、立后して中宮となられた尊いお方だ。ご夫君である先帝を早くに失われ、以後は幼き帝の母君、つまり皇太后としての尊崇を受けている。大宮というのは皇太后の別称である。
 とはいえ、公子には血の繋がった叔母に当たり、幼い頃から実の娘のように可愛がられて育った。幼い頃には大宮は幼帝を伴われ、度々この屋敷にもお出ましになられたけれど、もう久しくお逢いすることもないまま刻は過ぎている。
「ここのところ、随分と気落ちしておいでとの由、私の顔をご覧になる度に、そなたに逢いたいとしきりに懐かしがられている。昨日も是非、一度、そなたを寄越して、ゆるりと積もる話などしたいものだと仰せであった」
「私などに勿体なきお言葉にございます」
 公子が首を振ると、道遠は沈鬱な表情で首を振った。
「いや、何もそのように堅苦しう考えることはない。大宮さまは、そなたを血の繋がりし姪と思えばこそ、逢いたいと仰せなのだ。そなたも幼い砌は大宮さまに可愛がって頂いた。昔話に打ち興じるのも今の大宮さまには悪いことではなかろう」
「―そんなにお具合がよろしくないのですか」
 公子は胸が塞がれる想いで問うた。
 優しかった叔母であった。叔母と共にこの屋敷にお渡りになった従弟の帝にはあまり良い想い出はない。顔を見れば、いつも喧嘩ばかりの幼い二人だった。そういえば、あの生意気な従弟とももう長い間、逢っていない。
 どうやら、あの頃のまま成長してしまったらしく、若き帝の風評はあまり芳しいものではなかった。内裏に仕える女房には片っ端から手を付け、何と禁中で催される厳粛な儀式のときでさえ、お側に侍っていた典侍(ないしのすけ)(女官の職名)を御帳台の中に引き入れ、儀式の間中、淫事に耽っていたという。既に良人のいた典侍はその後、自らを恥じて自害して果てた―。蔵人を務めていた良人はその後、剃髪して僧となったが、いずこへともなく逐電、そのゆく方は不明となった。
 恐らくは大宮のお嘆きも帝の素行と無関係でもなかろう。そう思うと、公子は今更ながらに、あのいけ好かない従弟が憎らしい。
「桐壺更衣のことは、そなたも存じておろう」
 念を押すように言われ、公子は小さく顎を引く。
「ええ、主上の想い人でいらっしゃった方ですね」
 桐壺更衣―高階祐子、女性関係には何かと悪しき噂の多い帝がただ一人、本気で熱愛したという女人だ。多くの女官に手を付けても、すぐに熱が冷めていた十九歳の帝がこの祐子だけは傍から離そうとしなかった。咲き匂う花のごとくの容(かんばせ)と評されたように、儚げな面立ちの美少女で、十四歳で内裏に上がってほどなく帝の寝所に召された。元々は大宮、つまり帝の生母安子付きの女房であり、たまたま母君の許を訪れた帝が祐子を見初めたのである。祐子は桐壺に住まいを与えられ、〝桐壺御息所〟と呼ばれた。
 翌年、桐壺御息所祐子は若宮を生む。十八歳の若い父親となった帝も愛妾からの皇子誕生に殊の外歓ばれた。歓びのあまり、祐子を更衣から女御へ進ませると言い出したものの、これは左大臣藤原道遠初め、右大臣の藤原許(もと)嗣(ひで)(藤原氏の分家、道遠には従兄に当たる)、主立った廷臣たちに阻まれて実現できなかった。
 が、その若宮は生後ひと月で夭折、帝と祐子を大いに嘆かせた。その哀しみも覚めやらぬ中に、祐子は更に帝との間の第二子を身ごもる。そして、今年早々、夭折した若宮に続き、年子となる姫宮を出産したのだが―、あろうことか、死産であった。
 三日かがりの難産で漸く生み奉った皇女は産声さえ上げることなく、死んで生まれてきた。〝姫宮さま死産〟の悲報に追い打ちをかけるように、祐子は翌日、十七歳の若さで亡くなった。
―ご涕泣、雨のごとし。
 最愛の女人を失った帝の悲嘆の様は、そう語られた。
 そのときばかりは、公子も暗澹とした想いに駆られたものだった。何の罪もない二人の幼子の相次ぐ死に、更にその生みの母の祐子の死。
 一説には、過ぐる年、帝が手込めも同然に犯した典侍とその良人の恨みだと囁く者もいたが、たとえ無体なことをした帝に罪はあっても、祐子や幼い若宮、姫宮には何の罪もない。御仏は何と酷いお仕打ちをなさるものかと、公子は罰当たりにもそんなことを考えたほどだった。
 桐壺更衣祐子の実家は、中級貴族であり、祐子は出仕した時、既に後ろ盾となる父親を失っていた。実家自体も凋落しており、亡き父は少納言止まりで、たいした出世もしなかった。祐子が女御になれなかったのは、その出自のためによるところが大きい。
 むろん、道遠や許嗣たちが藤原氏以外の血族の娘に帝の後宮で権勢を握られてはたまらないといった考えで、阻まれたという背景もあるにはあったのだが。それでなくとも、祐子は帝の寵愛も厚く、その思し召しもひとかたならぬものがあった。あれほど女から女へと渡り歩いていた帝が初めて夢中になった娘であった。
 その祐子が寝所に伺候して、すぐに懐妊し、更に第一皇子を上げたときには流石の道遠も内心は焦ったものだった。狂喜した帝は何をとち狂ったか、祐子を更衣から女御に進ませると言い出し、そのようなことは前例がないと幾ら道遠が反対してみても一向に引こうとはしなかった。
 道遠にしてみれば、けして表には出さずとも、祐子の生み奉った御子が次々に亡くなり、挙げ句、祐子本人までが亡くなってしまったのは、まさに予期せぬ幸運であった。
「折角、若宮さま、姫宮さまを上げられながら、あのように儚くなられるとは、しかもまだお若き身空で何ともお気の毒なことよ」
 道遠は己が気持ちなどひた隠し、さも沈んだ声音で続ける。
「真に、仰せのとおりにございますわ」