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虫めずる姫君異聞・其の一

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 こういうところだけは世間知らずというか、聡明さに似合わずのんびり屋の公子は、のほほんと笑いながら相模を見つめている。
 傍の相模が大仰な溜息をついているのも眼に入ってはいないようだ。
 相模の母唐橋は、生前は公子の乳母を務めていた。相模は公子より四つ年上であり、乳姉妹に当たる。相模には赤児の時分に亡くなった妹が一人いて、その妹が公子と同年であった。当時、妹を生んだばかりの母は乳が豊かに湧き出るように出て、そのことで公子の乳母に任ぜられたという経緯がある。
 生まれて数ヶ月で亡くなった妹のせいか、相模は公子が何故か妹のように思えてならない。女のくせに学問好きで、おまけに虫に並々ならぬ愛着と興味を抱いている。当時、女人には漢学などの難しい学問は不要という考え方が主流であった。それなのに、公子は唐渡りの分厚い漢籍を苦もなく実にすらすらと読みこなす。
 むしろ、当時の高貴な姫君には必須の課題であった琴や和歌は苦手で、屋敷の中でじっとしているのも性に合わない。確かに長年傍に仕えてきた相模でさえ、公子が少し―いや正直にいえば、かなり風変わりな姫だと認めざるを得ない。
 何しろ、公子は大の男でも読めないような難しい書物を読み、しかも深く理解している。漢学における造詣は深く、師匠の文章博士紀伊公明も手放しで賞賛するほどの姫であった。そんな聡明な公子ではあるが、どこか見ていて放っておけないと思うようなところがある。眼を離すと、何をしでかすか判らない、どこに行ってしまうか判らないという不安が常に相模には付きまとっている。
 それは公子が世間知らずの姫君ゆえというだけではなく、恐らくは公子本来の持つ気性だろう。男も顔負けの博学家でありながら、虫を眺めたりするのが大好きでな公子は、誰よりも優しい。それは、公子の虫に対する興味が単なる興味だけではなく、優しさにまで及んでいることからも判る。
 たかが虫一匹と、公子はけして言わない。
―虫だって、私たちと同じで、ちゃんと生きているのよ。
 それが、公子の口癖であった。
 そんな公子は実は、とてもお人好しだ。涙脆くて優しくて、そのくせ、正義感も人一倍強い。全く、傍にいる相模はいつも気の休まる暇がないというのが実情だ。
 相模の母唐橋は数年前に病で亡くなったが、息を引き取る間際まで、実の娘の相模のことよりも公子のゆく末を案じていた。相模の手を握り締め、最後まで
―姫さまを頼みますよ。
 そう言いながら息を引き取ったのだ。
 また、相模自身、既に父は十年前に任地で客死し、母もまた亡くなった境遇であれば、他に身寄りとてなかった。今は公子だけが唯一、身内と思える近しい存在であった。
 そんな諸々の事情から、相模はこの聡明ながら、世間知らずの姫を何より大切な守るべき存在だと心得ている。
 今だって、公子は呑気に笑っているけれど、現実には相模の心配は当然のことだ。仮にも今をときめく左大臣藤原道遠の屋敷、警護は十分だとはいっても、どこから誰が見ているかは判らない。
 公子だって、一応は年頃の姫なのだから。
 公子はおっとりと微笑みながらも、相模の心を見透かすかのようなことを言う、。
「大丈夫よ、私を垣間見ようなんて、そんな酔狂なことを思う殿方がいらっしゃるとは到底思えないもの。折角の春なのに、屋敷に閉じこもりきりだなんて。そんなつまらない心配をするよりも、相模も見てご覧なさい。雪柳が綺麗よ」
 公子の言葉はある意味真実だが、それも考え物ではある。
 左大臣のただ一人の姫である公子は現在、二十歳。早婚の時代としては、はや嫁き遅れの感は否めない。何故、権勢を誇る大臣(おとど)の娘公子がいまだに通わせる公達の一人もいないかとなれば、その理由は明白だ。公子があまりにも風変わりな姫―端的にいえば変人であるとの噂がその結婚の妨げとなっていることは言うまでもない。
 左大臣の姫は世にも醜い姫、その上、女だてらに小難しい漢籍などを読みふけり、あまつさえ気色の悪い虫どもをさも愛おしげに眺めている―、そんな噂が真しやかに語られれば、当の噂の姫に恋文を送ろうなどという勇気のある公達はそうそうはいまい。
 それに、実は公子にとって不名誉極まる噂はもう一つあった。というのは、公子がいまだに月のものもない不具、つまり片輪者の姫であるというものだ。
―左大臣の姫君はふためと見られぬ醜い姫であるだけではなく、二十歳を過ぎても一人前の女ではない、不具(かたわ)だというぞ。
 左大臣家では、けして口外する者のおらぬ公子の秘密がどうして世間に洩れたのか。公子に仕えていた女房の中で暇を取った者たちの誰かがうっかりと恋人か良人にでも話してしまったのかもしれない。
 興味本位の噂のせいで、公子は世の年頃の姫君たちが次々と結婚してゆく中、ひっそりと世捨て人のような日々を過ごしてきたのだ。そのことを哀れにも理不尽にも思う相模であった。相模自身はこれまでに恋人の一人や二人はいて、結婚しようと言ってくれた男もいたけれど、結婚する気は毛頭ない。
 母の遺言ともいうべき
―姫さまのことを頼みますよ。
 その言葉をどのようなことがあっても守り抜く覚悟であった。
 相模はそれとなく視線を動かし、公子の指す方を見る。確かに、庭の雪柳は今が盛りであった。白い小さな花を無数につけた枝は地面に届きそうなほどに、重たげだ。
 この可憐な花は、どこか薄幸な―それでも、薄幸ささえ感じさせない優しくて屈託ない女主人に似ている。
 相模は心の中で雪の切片にも似た花を眺めながら、ひそかに思った。
「それに、ほら、こんな虫も見つけたのよ」
 公子は無造作に手を伸ばしたかと思うと、桜の樹に付いた虫をつまんだ。壊れ物を扱うようにそっと手のひらに載せて差し出す。
 その手のひらを覗き込んだ相模から、たまぎるような悲鳴が響いた。
「ま、どうしたの?」
 公子は愕いて、眼を見開く。心外だと言わんばかりに大きな眼を更に大きくして、この姉のように慕う侍女を見つめた。
「ひ、姫さま。こ、これはっ」
―一体、何なのでございますか?
 相模はそう問おうとしたのだけれど、当の公子は、相模の気など知らずにのんびりと笑っている。
「見れば判るでしょ、毛虫よ」
「け、け、けっ、毛虫っ」
 相模は、まるで、どもりになってしまったように言葉がつかえて上手く出てこなかった。
「ね、可愛いでしょう?」
 満面の笑みを湛えて言う公子は、確かに可愛らしい。二十歳を迎える姫君とは思えぬほど―幼顔のせいか、せいせいが十六、七にしか見えないだろう。
 相模は、この姫を世間の人々に見せてやりたいと思う。
―うちの姫さまのどこかふためと見られぬ醜女ですって!?
 黒眼がちの大きな眼が印象的で、膚は白く、すべらかだ。美人とは言えないまでも、十分美しいといって良い範疇に入るだろうし、それが相模の贔屓目だとしても、十人並みよりは上の器量だ。何よりの自慢は相模が毎朝、丹念に刻をかけて梳っている丈なす豊かな黒髪だった。