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虫めずる姫君異聞・其の一

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 少女が去った方を、少年は睨みつけるようにして立っている。
 また風が吹き、無数の白い花びらがさわさわと揺れた。まるで悲鳴を上げるような、物哀しい音。心の奥をざわめかせるような音だ。
 その音は、心ない言葉のつぶてを投げつけられた少女の心の悲鳴にも少年は思える。
 だが、自分でも、どうにもならない。あの少女の顔を見ただけで、いつも心にもない科白が口から飛び出し、気が付けば、容赦ない言葉の数々で彼女を傷つけている。
 自分があの年上の姫を振り向かせたいのだということに、少年は気付いていない。〝年下の従弟〟でもなく、〝帝〟としてでもなく。ただの一人の人間としてあの姫に見て貰いたい。
 なのに、あの少女ときたら、彼を見れば、説教じみた乳母のような科白を口にし、顔を赤らめさえしない。彼の取り巻きの若く美しい女房たちは、いつもたった八つの子どもに過ぎない自分が笑いかけただけで、頬を染め恥じらうというのに。
 どうして、こう上手くゆかないのだろう。もし、あの少女が自分にほんの少しでも良い、優しく微笑みかけてくれさえすれば。
 自分はもっと優しく、少女を怒らせないように、いかにも公達らしい優雅な物腰で相対することができるだろうに。
 いかにも知った風な顔で説教臭いことを言われることが癪に障り、つい言わなくても良いことまで言ってしまう。そのことが彼女を傷つけていることだけは、彼にも判っている。
 それでも、止められない。
 自分の方を見て欲しいから、そんなひとまわりも年上の女官のような分別くさいことは言わないで欲しい。自分の顔を見ただけで、露骨に嫌悪もあらわな顔をしないで欲しい。
 少年は白い花片を浴びながら、恨めしげな顔でその場に立ち尽くしていた。
 

 壱の巻

 ふわりと優しい風がそっと頬を撫でて通り過ぎてゆく。まるで幼い頃に亡くなった母のやわらかな手にあやされるような気がして、公子(きんし)はゆっくりと眼を開く。
 ゆるりと頭をめぐらせると、そこは、見慣れた自分の部屋であった。どうやら、文机で書見している最中に、うたた寝してしまったらしい。
 降ろされたままの蔀戸を開けると、途端に春の風が吹き込んできた。公子は立ち上がり、簀子(すのこ)縁まで歩いてゆく。
 その生命の芽吹きの感じられる風を胸一杯に吸い込むと、心の中に淀んでいたものが一挙に洗い流されてゆくようだ。
 公子はそのまま簀子縁から庭に降りると、春の光景に眼を奪われた。心まで温まるような陽差しを浴び、今を盛りと咲き誇っている花は雪柳である。公子はこの愛らしい花を見る度、冬に降る雪を思い出すのだった。長い枝がしなるほどにたわわに花をつけ、その先は地面に届きそうなほどになっている。
 風が吹くと、その花を一杯につけた枝がまるで海の底の藻のように揺らめく。そして、その都度、細やかな花びらを雪のように地面に降らせるのだ。
 その光景を見ていると、いつまで経っても飽きることがない。公子はその場に佇んで、心和む春のひとときに思う存分に浸った。
 と、唐突に頭上から何かが落ちてくる。愕いて上を見上げると、その何かはポトリと小さな音を立てて地面に墜落した。しゃがみ込み、そっと地面に落ちたものを指先でつまみ上げる。公子のほっそりとした指先の間でしきりに小さな身体を蠢かせるのは―、何と毛虫だった。
 公子はもう一度、頭上を振り仰いだ。恐らくは背後の桜の樹から落ちてきたに相違ない。
 弥生の上旬の今、桜はまだ花をつけてはいない。緑の葉裏が春の陽を浴びて、眩しく光っていた。
 公子は哀れな毛虫を眺め、微笑む。
「可哀想に、樹から落ちてしまったのね」
 公子は慣れた手つきで毛虫をつまんだまま、そっと樹の幹に置いた。
「これで大丈夫、うっかり踏みつぶされでもしたら、大変だもの」
 公子の優しさは、人間だけではなく、虫―大抵の者ならば、ひとめ見ただけで眉を顰めるような、そんな類の虫にまで注がれる。
 だが、他人(ひと)は公子のそんな優しさを少しも理解はしてくれない。ただ〝虫めずる姫君〟だなぞと面白おかしく呼び立てて、変わり者の姫だとあまり好意的ではない噂をするにすぎないのだ。
 公子は格別、そのことに対して何も感じてはいない。―というよりは、むしろ、世間が我が身をどのような眼で見るかどうかといったことなどは、公子には些末なことだった。たとえ他人が自分をどのように見ようが、自分は自分ではないか。むろん、公子だとて人と虫を同列に並べて考えているわけではない。
 ただ、自分の持つ優しさのほんの少しでも、この小さな愛すべき虫たちに与えてあげることができたならと思っているだけなのだ。
―だって、おかしいもの。
 公子は思わずにはいられない。
 人間は毛虫を見れば、毛嫌いするけれど、毛虫は大きくなれば、蛹を経て蝶になる。美しい蝶を見て、厭な顔をする者はいない。なのに、どうして蝶の幼虫である毛虫を見れば、汚いものでも見たような顔をするのか。蝶は綺麗で、毛虫は汚いものだ。そんな風に解釈するのは所詮、人間の身勝手な理屈だ。人間は自分たちの主観だけで物事を判断する。
 けれど、自然界で生きる小さな生きものたちには、人間の勝手な理屈は通じない。人間は毛虫を見れば踏みつぶしたりするが、彼等の眼に、人間の情け容赦ない仕打ちはさぞ冷酷で自分勝手なものに映っているだろう。
 この小さな毛虫だって、公子と同じで、ちゃんと生きている。このままつつがなく成長すれば、時が来れば、さぞや美しい蝶になるに相違ないのだから。その大切な生命をむざと消すのは、あまりにも残酷だ。人と虫の生命を同じ次元で捉えているわけではないけれど、虫の生命も人の生命も生命そのものの大切さに変わりはないだろう。
「ちゃんと大きくなって、今度逢うときは、綺麗な蝶になった姿を見せてよ?」
 公子は優しく語り聞かせるような口調で小さな虫に言った。
 そのときである。
 向こうから呼び声が風に乗って運ばれてきた。
「姫さま、姫さま」
 公子は振り向くと、およそ深窓の姫君には似つかわしくない大声で―しかも伸び上がり大きく手を振りながら応えた。
「相模、ここよ、私はここにいるわ」
 ほどなく、蒼白になった侍女がまろぶようにやって来た。公子付きの女房相模である。相模は父の官職にちなんで、こう呼ばれている。相模の父は以前、相模守を務めたことがあったからだ。
「まあ、姫さまってば、また、このようなところに一人でお出ましになって。あれほど私が人眼に立たないようになさって下さいませと申し上げましたのに」
 相模は恨めしげな表情で女主人を見つめた。大柄な相模から見れば、小柄な公子は見下ろす形になってしまうのだけれど。
「だって、こんなお天気の良い日に勿体ないじゃない? 折角気持ちの良い昼下がりなのよ。庭に出て花を見るくらいは許されるのではないかしら」
「まっ、また、そのようなことをおっしゃって。たとえ、お屋敷のお庭内とはいえ、どこから誰が垣間見しているかも判らないのですよ。仮にも左大臣さまの姫君でおわされるのですから、もう少しご自重して頂かなければ」
「まあ、相模ったら、いつも大袈裟なんだから」