虫めずる姫君異聞・其の一
《序章》
風が吹く度、まるで雪を思わせる細やかな花びらがはらはらと舞い上がり、散り零れる。無数の白い花びらは地面を覆い尽くすほどに散り敷き、真に冬に鈍色の天(そら)から舞い降りてくる雪が降り積もったようだ。
まだ早い春の風は僅かに冷たさを含んでいて、少女は身の傍を春の気紛れな風が吹き抜けてゆくと、華奢な身体を小刻みに震わせる。眼の前で風に揺れている白い花が、あたかも我が身自身のようにも思えてくるのだった。
少女は瞳に力をぐっと込め、対峙する相手を睨みつける。負けてなるものか、と思う。たとえ相手がいかほど身分の高い、高貴な人であろうと、人間には口にして良いことと悪いことがある。幼少とはいえ、一天万乗の君、至高の尊(たつと)い存在としてこの世に君臨する御身であれば―もっとも、少女にはこの礼儀を何たるかも知らぬ生意気な子どもを敬う気持ちなどさらさらなかったが―、もう少しは態度や物言いに気をつけて欲しいものだ。
その内心の侮蔑と嫌悪は露骨に少女の面に出ている。そのことに、やはり聡いとはいえ、まだ幼い彼女は気付いていない。
少女が自分を嫌っていることが少年には判っている。判っているからこそ、彼がなおのこと彼女の癇に障るような物言いをしてみせることに、少女は思い至っていないのだ。
「醜女」
憎らしいことに、眼の前の少年は思いきりしかめ面をして、おまけにあかんべえまでしてみせる。少女が敢えて無関心を装おうとすれば、少年は余計にムキになったかのように挑発めいた言動に出るのは常のことだ。
「何ですって」
少女は握りしめた両の拳に更に力を込める。
「醜女」
少年はわざとらしく、今度はゆっくりと大きな声で叫ぶ。
少女はとうとう我慢ならずに言い返す。
「主上(うえ)のご学問のお師匠は文章博士の紀伊(きの)公明(きみあき)さまにございますね。紀伊公明さまといえば、当代でも並ぶ者がおらぬというほどの優れたお方。そのような先生にご指導頂きながら、主上は毎日、何をお学びになられておわされるのやら」
紀伊公明―、あの〝土佐日記〟を著した紀貫之の流れを汲む名門紀伊家の当主にして文章博士を務める当代きっての博識家である。
何を隠そう、この公明は少女の手習いの師匠でもあった。あまりにも畏れ多いことゆえ、公明は広言はしない。けれど、この極めて不肖の弟子―つまり少年のことである―と、裏腹に衆に抜きん出た利発さを持つ少女、二人の弟子が全く相容れない仲であること、そして、二人の立場が入れ替わっていれば良かったのにと毎度ながら痛感していることなどは普段からおくびにも出さない。
この一つ違いの従姉弟にも当たる二人は、物心ついた頃から犬猿の仲で、顔を見れば罵り合い放題、喧嘩ばかりなのは宮中に出仕する者であれば周知のこと。もっとも、その場合、大抵は一つ下の少年の方が専ら従姉を挑発し、最初は我慢していた少女の方がついに怒りを爆発させてしまうといったことが多い。
要するに、大人が一歩距離を置いて見れば、少年が少し気になる、つまり好きな女の子にわざと突っかかってゆくのだと判るが、まだ年端もゆかぬ当人同士―殊に少女の方にしてみれば毎度、顔を合わせる毎に嫌みを言われるものだから、たまらない。この一つ年下の生意気で恥知らずな従弟は、少女にとっては大嫌いな奴でしかない。
おまけに、この少年は彼女を見る度に、〝醜女〟と実はかなり気にしていることを平然とずばずばと口にする。至高の位にあることに良いことに、当代随一の知恵者という紀伊公明を師に持ちながらも、真面目に学ぼうとせず、昼間から年若い女房たちに囲まれ管弦だ詩歌だと遊びにばかり耽っている。尊敬どころか、軽蔑しかできない。
「毎日、女房たちと浮かれ遊んでいるばかりじゃなくて、他に学ぶべきことはないの? 折角、紀伊先生という素晴らしいお方に学んでいながら、あなたは何もそれを活かそうとはなさらないのね」
少女が手厳しく言うと、少年は皮肉げに口の端を引き上げる。
「女だてらに小賢しい物言いばかりする。お前こそ、女だてらに難しい漢籍ばかり読みふけって、和歌の一つも詠まぬゆえ、余計に女らしうなれぬのだ、醜女め」
「何ですって」
少女は唇を噛みしめた。
あまりといえば、あまりな物言いだ。
これまで耐えに耐えていた我慢の限界を超えてしまった。
「本当のことを申して、何が悪い。お前は顔までか心まで醜い女だな」
刹那、乾いた音が鳴った。
ひとときの静寂。
その時、一陣の風が相対する二人の間を駆け抜けた。心ない風に身を震わせ、細やかな白い花びらを一斉に散らせる花、それは雪柳であった。
狂ったように舞う花びらの雪を頭から浴びながら、幼い二人はしばし見つめ合う。
いや、それは見つめ合うというよりは、にらみ合うと言った方がふさわしかったろう。
白い小さな花びらが少女の肩に、髪に降り積もる。
花びらを全身に纏いつかせた少女は春の季節にはふさわしい紅梅(こうばい)襲(がさね)の衵(あこめ)を着ている。肩まで伸びた黒髪はすんなりとして艶(つや)やかで、美少女とまではゆかずとも、十分に愛らしい。もちろん、まだ九歳の少女はまだ己れの容姿には無頓着であるし、平素から女の子の歓ぶひいな遊びや貝合わせよりは漢籍を読むのが好きとあれば、余計にそういったことには疎い。同じ歳頃の女の子と遊ぶよりは、庭に出て虫を探したりするのが好きという変わり者の姫だ。
普通、貴族の姫君ともなれば、屋敷の奥深くに閉じこもり、日がな琴を奏でたり和歌を詠んだりするのが日課のはずなのに、どういうわけか、この姫は平気で人前にも姿を現すし、女らしいものにも何一つ興味を示さない。そういったところから、変人扱いされ、〝今虫めずる姫君〟なぞと、実に有り難くない呼び名まで付けられる始末になってしまった。
むろん、この呼び名は草紙物語の〝虫めずる姫君〟にちなんでいる。この物語の主人公の姫君は虫が何より大好きという少々どころか、かなり変わった姫君なのだ。その〝今虫めずる姫君〟は毛虫を好み、当人の姫もまた毛虫のような容貌の醜い姫だというぞ―と、口さがない噂がひろがったのは、いつの頃か。
その噂のお陰で、少女の父は随分と形見の狭い想いをしていることを知らぬ少女ではない。少年の悪態もその心ない噂を受けてのものだと判ってはいるけれど、こうも面と向かって悪し様に言われては、たまったものではない。少女の心は玻璃細工のように粉々になり、傷ついていた。
少女の瞳の底には、憎しみの焔が燃え上がっていた。
顔を見れば、敵意むき出しで自分を言葉で嬲り尽くそうとするこの年下の従弟が今はただひたすら厭わしくてならない。
対する少年の方には、憎しみだけではない何か、それは余人にも窺い知れぬような複雑な感情が揺れていた。
頬を打たれた少年は少女を睨み据え、右頬を押さえている。
思いきり少年の頬を打った少女の手もまた衝撃で熱と痛みを持っていた。少女の眼に悔し涙が滲んだ。
「心が醜いのは、どちらの方かしら」
少女はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。衵を着た華奢な後ろ姿が直に緑の茂みの向こうに消える。
風が吹く度、まるで雪を思わせる細やかな花びらがはらはらと舞い上がり、散り零れる。無数の白い花びらは地面を覆い尽くすほどに散り敷き、真に冬に鈍色の天(そら)から舞い降りてくる雪が降り積もったようだ。
まだ早い春の風は僅かに冷たさを含んでいて、少女は身の傍を春の気紛れな風が吹き抜けてゆくと、華奢な身体を小刻みに震わせる。眼の前で風に揺れている白い花が、あたかも我が身自身のようにも思えてくるのだった。
少女は瞳に力をぐっと込め、対峙する相手を睨みつける。負けてなるものか、と思う。たとえ相手がいかほど身分の高い、高貴な人であろうと、人間には口にして良いことと悪いことがある。幼少とはいえ、一天万乗の君、至高の尊(たつと)い存在としてこの世に君臨する御身であれば―もっとも、少女にはこの礼儀を何たるかも知らぬ生意気な子どもを敬う気持ちなどさらさらなかったが―、もう少しは態度や物言いに気をつけて欲しいものだ。
その内心の侮蔑と嫌悪は露骨に少女の面に出ている。そのことに、やはり聡いとはいえ、まだ幼い彼女は気付いていない。
少女が自分を嫌っていることが少年には判っている。判っているからこそ、彼がなおのこと彼女の癇に障るような物言いをしてみせることに、少女は思い至っていないのだ。
「醜女」
憎らしいことに、眼の前の少年は思いきりしかめ面をして、おまけにあかんべえまでしてみせる。少女が敢えて無関心を装おうとすれば、少年は余計にムキになったかのように挑発めいた言動に出るのは常のことだ。
「何ですって」
少女は握りしめた両の拳に更に力を込める。
「醜女」
少年はわざとらしく、今度はゆっくりと大きな声で叫ぶ。
少女はとうとう我慢ならずに言い返す。
「主上(うえ)のご学問のお師匠は文章博士の紀伊(きの)公明(きみあき)さまにございますね。紀伊公明さまといえば、当代でも並ぶ者がおらぬというほどの優れたお方。そのような先生にご指導頂きながら、主上は毎日、何をお学びになられておわされるのやら」
紀伊公明―、あの〝土佐日記〟を著した紀貫之の流れを汲む名門紀伊家の当主にして文章博士を務める当代きっての博識家である。
何を隠そう、この公明は少女の手習いの師匠でもあった。あまりにも畏れ多いことゆえ、公明は広言はしない。けれど、この極めて不肖の弟子―つまり少年のことである―と、裏腹に衆に抜きん出た利発さを持つ少女、二人の弟子が全く相容れない仲であること、そして、二人の立場が入れ替わっていれば良かったのにと毎度ながら痛感していることなどは普段からおくびにも出さない。
この一つ違いの従姉弟にも当たる二人は、物心ついた頃から犬猿の仲で、顔を見れば罵り合い放題、喧嘩ばかりなのは宮中に出仕する者であれば周知のこと。もっとも、その場合、大抵は一つ下の少年の方が専ら従姉を挑発し、最初は我慢していた少女の方がついに怒りを爆発させてしまうといったことが多い。
要するに、大人が一歩距離を置いて見れば、少年が少し気になる、つまり好きな女の子にわざと突っかかってゆくのだと判るが、まだ年端もゆかぬ当人同士―殊に少女の方にしてみれば毎度、顔を合わせる毎に嫌みを言われるものだから、たまらない。この一つ年下の生意気で恥知らずな従弟は、少女にとっては大嫌いな奴でしかない。
おまけに、この少年は彼女を見る度に、〝醜女〟と実はかなり気にしていることを平然とずばずばと口にする。至高の位にあることに良いことに、当代随一の知恵者という紀伊公明を師に持ちながらも、真面目に学ぼうとせず、昼間から年若い女房たちに囲まれ管弦だ詩歌だと遊びにばかり耽っている。尊敬どころか、軽蔑しかできない。
「毎日、女房たちと浮かれ遊んでいるばかりじゃなくて、他に学ぶべきことはないの? 折角、紀伊先生という素晴らしいお方に学んでいながら、あなたは何もそれを活かそうとはなさらないのね」
少女が手厳しく言うと、少年は皮肉げに口の端を引き上げる。
「女だてらに小賢しい物言いばかりする。お前こそ、女だてらに難しい漢籍ばかり読みふけって、和歌の一つも詠まぬゆえ、余計に女らしうなれぬのだ、醜女め」
「何ですって」
少女は唇を噛みしめた。
あまりといえば、あまりな物言いだ。
これまで耐えに耐えていた我慢の限界を超えてしまった。
「本当のことを申して、何が悪い。お前は顔までか心まで醜い女だな」
刹那、乾いた音が鳴った。
ひとときの静寂。
その時、一陣の風が相対する二人の間を駆け抜けた。心ない風に身を震わせ、細やかな白い花びらを一斉に散らせる花、それは雪柳であった。
狂ったように舞う花びらの雪を頭から浴びながら、幼い二人はしばし見つめ合う。
いや、それは見つめ合うというよりは、にらみ合うと言った方がふさわしかったろう。
白い小さな花びらが少女の肩に、髪に降り積もる。
花びらを全身に纏いつかせた少女は春の季節にはふさわしい紅梅(こうばい)襲(がさね)の衵(あこめ)を着ている。肩まで伸びた黒髪はすんなりとして艶(つや)やかで、美少女とまではゆかずとも、十分に愛らしい。もちろん、まだ九歳の少女はまだ己れの容姿には無頓着であるし、平素から女の子の歓ぶひいな遊びや貝合わせよりは漢籍を読むのが好きとあれば、余計にそういったことには疎い。同じ歳頃の女の子と遊ぶよりは、庭に出て虫を探したりするのが好きという変わり者の姫だ。
普通、貴族の姫君ともなれば、屋敷の奥深くに閉じこもり、日がな琴を奏でたり和歌を詠んだりするのが日課のはずなのに、どういうわけか、この姫は平気で人前にも姿を現すし、女らしいものにも何一つ興味を示さない。そういったところから、変人扱いされ、〝今虫めずる姫君〟なぞと、実に有り難くない呼び名まで付けられる始末になってしまった。
むろん、この呼び名は草紙物語の〝虫めずる姫君〟にちなんでいる。この物語の主人公の姫君は虫が何より大好きという少々どころか、かなり変わった姫君なのだ。その〝今虫めずる姫君〟は毛虫を好み、当人の姫もまた毛虫のような容貌の醜い姫だというぞ―と、口さがない噂がひろがったのは、いつの頃か。
その噂のお陰で、少女の父は随分と形見の狭い想いをしていることを知らぬ少女ではない。少年の悪態もその心ない噂を受けてのものだと判ってはいるけれど、こうも面と向かって悪し様に言われては、たまったものではない。少女の心は玻璃細工のように粉々になり、傷ついていた。
少女の瞳の底には、憎しみの焔が燃え上がっていた。
顔を見れば、敵意むき出しで自分を言葉で嬲り尽くそうとするこの年下の従弟が今はただひたすら厭わしくてならない。
対する少年の方には、憎しみだけではない何か、それは余人にも窺い知れぬような複雑な感情が揺れていた。
頬を打たれた少年は少女を睨み据え、右頬を押さえている。
思いきり少年の頬を打った少女の手もまた衝撃で熱と痛みを持っていた。少女の眼に悔し涙が滲んだ。
「心が醜いのは、どちらの方かしら」
少女はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。衵を着た華奢な後ろ姿が直に緑の茂みの向こうに消える。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の一 作家名:東 めぐみ