ゆく河の舟で三三九度(第三話)
「そういうダメなところって自分のなかにもあるんだ。な? 悪役のほうが親近感沸くだろ?」
風季はぼんやりと続ける。地獄博士とナラーシャは風季のよく知る特撮に出てくる登場人物だった。地獄博士は死んだ妹・ナラーシャを蘇らせるために悪の秘密結社に入隊する。しかし、地獄博士はやがて妹を蘇らせることよりも秘密結社の活動そのものに没頭していく。忘れ去られた妹は冷たいショーケースの中で氷漬けの時を刻む。
風季は食べかけだったモンテールのシュークリームを再び口に運んだ。三段になったサイドテーブルの一段目と二段目には化粧品の瓶があれこれ並んでいた。そして、その一番下の段には化粧品のファンシーな色とは不釣合の黒地の本が一冊立てかけられていた。
『特撮・アニメ 悪役大全集』
何度も読まれているものらしく、背表紙はいたみ、ページは元々の凛とした直方体の形から大きくはみ出てだらしなく開き気味になっていた。
「いつになったら本返せるんだよ」
風季はいつのまにかシュークリームを食べるのを止めて、その本の主がそこにいるかのように、じっと黒い背表紙を睨みつけていた。
*
「あのねぇ、三〇年もカメラほっといたら壊れるうんぬんの前にまず電源。電池の液漏れなのよ。これのせいでカメラが動かなくなっちゃってるの」
「はぁ、そうでしたか」
「これ全部きれいにしておきましたから。でね、カメラの電源なんだけどMR44。これね、もう生産されてない電池なのよ。だけどね、LR44って電池が代わりに使えますから。これ使って頂戴ね」
「はぁ、そうでしたか」
「大丈夫? 覚えた? 書いとこうか?」
「はぁ、そうでしたか」
「そうでしたか、じゃないでしょうに」
「難しいわねぇ、本当に」
カメラ屋の店主はしょうがないな、という顔をして眉をしかめると、ボールペンの頭をカチリと小突いた。明細の肩のあたりに「電池はLR44を使ってください」と書き込む。
「ありがとうございます」
房子はにこりと微笑んでそれを受け取った。やれやれといった感じで、店主は鼻から息を吐き出した。
「でもね、これ値段の割には結構いいカメラよ。レンズがねHEXANONっていういいレンズ使ってるんですよ。だからよく写ると思います」
房子は今度は何も言わずにニコニコ笑っておくだけにした。
「そうだ、あとこれ」
店主は、カウンター下の棚から縦長の口の開いた封筒を取り出した。
「カメラの中に、フィルム残ってたんで、現像しておきましたよ。すでに感光しちゃっててダメになってたものもあるんで、これはサービスで」
「ありがとうございます」
房子はうやうやしくお辞儀をし、顔を上げると、カメラ屋の店主の視線とぶつかった。店主はばつが悪そうに横を向いた。いやいや、すみません。それでは、カメラ大事に使ってやってくださいね。
店主が最後の言葉をかけたときには、もう既に写真店のドアベルがリン、と音を立てていた。
*
写真店を出ると、房子の足取りは一歩あゆむごとに早くなっていった。房子の後ろを、目に見えない亡霊がとぐろを巻いてどんどん大きくなりながらついてきているかのような様子だった。亡霊は房子が振り返るのを鎌首をもたげながら待っているのだ。房子が振り返ったら最後、亡霊は巨大な鎌の房子の首に振り落すのだろう。
房子は、しまいには小走りになっていた。人のいないほう、声のしないほうへ。房子はまだ慣れない街のなかをでたらめに足を向けた。やがて、住宅街の中に入ったが、それでも房子の足は止まらなかった。房子が足を止めたのは、亡霊の影が去って安心したからではなく、風が吹いて、目の前が散りゆく桜の花びらでいっぱいになったからだった。
房子は声もなく桜を見上げた。無音だった。桜の大樹は幾重にも花をつけた枝を重ね、そこに立っていた。また風が吹く。房子の銀色の髪の上に花びらが一つ二つ舞い落ちた。
「邪魔だよ、どきな」
突然、房子は老婦人に肘で体を押された。房子は、反射的にすみません、と謝って、自分が立ち止まっていた場所を確かめようと、あたりを見回した。
房子が立ち止まったのは、公園の入り口だった。入り口は大きく開かれており、房子が立っていた場所も人の進路を妨げるような場所ではなかった。一歩右か左にずれればいくらでも前に進める。
むっとした房子は、声の主のほうを見た。その人物は、つばの広い大きな帽子をかぶり、派手な模様入りのコートを着て、そう早くない速度で前方を歩いていた。服や小物のデザインは流行に左右されないトラディッショナルなものばかりで、どれもいい値段がしそうだった。しかし、帽子はよれよれでつばが下に垂れていたし、コートの柄は元がどんな色だったのか見当がつかない程褪せていた。その服の様子だけ見ると、浮浪者のようにも見えた。そして、手には白い杖が握られていた。
房子がその老婦人を見ていると、老婦人は何かを思い出したようにぴたりと止まった。そして、房子のほうを振り返ってじいっと見つめた。房子はまた何か声をかけられる前に、慌ててその場を立ち去った。
*
笹岡は真っ白なキャビネットの鍵を開けた。ぽっかりと物静かな獣が口を開き、胃袋の中に蓄えられたファイルをずらりと示した。ファイルはどれも背幅が5センチはある分厚いもので、その中には隙間なくぎっちりと書類が挟まれていた。随分と期間の幅はあるようで、下のほうの段にあるものは紐綴じのファイルや、背表紙に書きこまれた万年筆のタイトルが色あせているものもあった。
笹岡は、中段にある新しい白いファイルを開く。何枚かページをめくると、房子が紙上に現れた。頬は強張り、眉間には皺が寄っていた。そして口元はなにかを見つけてしまったかのようにわずかに緩んでいた。今ののびのびした表情からは想像もつかない。これでは指名手配の犯人の写真だ。
笹岡はもう一枚ページをめくった。きれいにプリントアウトされた文字から一変、殴り書きのメモが続く。それは笹岡が残した面談記録だった。
20XX年 11月15日 窪池房子さま 第一回ご面談
「もう少し、具体的な条件をお聞かせ願えませんか。私も窪池様にもっともふさわしい相手を探したいと考えていますので」
窓からの日差しは、部屋に長い影を壁のほうまで伸ばしていた。笹岡は、穏やかな口調で言っていたが、内心、小さな苛立ちがぐつぐつと煮詰まり始めていた。湯飲み茶碗は既に茶葉が乾燥してすっと真っ直ぐな線が引かれている。ずっと続いた沈黙の後で、房子はようやく答えた。
「なんでもいいんです、一緒に暮らしてさえくれれば」
笹岡は笑顔を作るついでに息を吐いた。
「そうですか…それでは、せめてこの『過去の印象的な思い出』の欄に小学校のときのことばかりでなくて、もう少し上の…そうですね、二〇代から五〇代ぐらいの間に起きたことを何か一つくらい書いて頂けないでしょうか。結婚というのはお一人でするものではなく、お相手あってのことですから。こういった情報がお相手にとって良いパートナーを探す手がかりになるんですよ」
房子はじっと紙面を見つめた。先生にテストの悪い点を怒られた生徒のように、そのままじっとしている。
作品名:ゆく河の舟で三三九度(第三話) 作家名:深森花苑