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ゆく河の舟で三三九度(第三話)

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房子はひとり、健二よりも早く目が覚めると朝の暗がりを這い出て台所へ立った。流しではすでに炊飯器が一合の白飯を炊き終えて、房子を待ち構えていた。ふっくらとした白い香りが、腕を伸ばし、その両の手を広げて包み込む。房子は香りの抱擁を軽くいなすと、慣れない手つきで戸棚を開いた。ぽつりと置かれた古い鍋はいつも沸かす湯の量が鈍色になって刻まれている。房子は鍋を流しに出して、慣れた手つきで蛇口をひねった。
 どの家にも訪れるなにかが始まる騒がしい気配はまだここには来ていなかった。しゃん、とした朝の光が空気の皺を伸ばす。湯が沸く前の、炎の燃焼する静かな唸りが響き続けている。
 やがて襖を隔てた奥の間から健二の大仰なあくびが聞こえてきた。居間のテレビのスイッチが入り、ニュースの平坦なアナウンスが朝のBGMとなる。まな板の上で葉が刻まれ、たんたんと流れるニュースのリズムをとる。一日を回す水車が動き始める。時の川がゆっくりと流れ始める。
「いただきます」
 手を合わせて二人は箸を手に取った。房子はそこで一度手を止めた。なにか思うところがあるのか、テレビを見るでもなく、茶碗を手の中でもてあましている。健二はぱりぱりといわせながら海苔を喉の奥に追いやると、次は鮭に箸を伸ばした。
「誰かと一緒の朝ごはんは久しぶりですか」
健二は鮭をほぐしながら聞いた。皮に付いた透明な脂身も残さず箸で集める。ニュースは昨日と異なる個所のわからないフレーズを繰り返していた。
「いえ、半年ぶりぐらいですよ。それまでは洋品店のおばあちゃんとずっと一緒に食べてましたから」
 房子はそこで顔を上げ、白米を一口運んだ。健二は、まだ部屋の片隅に追いやられているままのスーツケースをちらりと見遣った。国内旅行用の小さなスーツケースは、今までの房子の人生のすべてすべてを詰め込むにはあまりに小さかった。しかし、房子は旧居から出る際に、これだけでいい、と言ったのだった。『もう、必要なものはこの中に全部入ってますから。』
 房子は昨日、その中から寝間着だけを出すと、またチャックを端っこまで丁寧に閉めていた。
「荷物…本当にあれだけで良かったのですか? あの洋品店は、ゆくゆくは取り壊しになるのでしょう?」
 房子は四〇代から「椎野洋品店」という町の小さな洋品店で住み込みで働いていたという。房子はその洋品店の主である椎野トヨという老女と二人で衣食を共にして暮らしていたのだ。しかし、今はそのトヨもこの世を去り、また、房子も健二の元へ行くことになり、椎野洋品店は住む者のない廃墟となった。建物は近いうちに解体されるという。
 健二は何度か椎野洋品店まで房子を迎えに足を運んだことがあった。薄暗いカウンターの裏にはボタンの箱が天井近くまで積み上がり、そしてその更に上にもうページの黄ばんだ分厚い冊子が何冊か無造作に置かれていた。それは、どうやらアルバムのようだった。あれが房子の持ち込んだ荷物だったかまではわからない。ただ、ああいったものが誰の手元にも残らず、塵あくたと変わらない扱いで消えていくのは忍びない気持ちがした。誰かの、たった一度「生きてきた」という痕跡――。
「いいんですよ」
 房子は湯気のあがる豆腐とわかめの味噌汁をすすった。
「私が残したいのは、これからの人生ですから」

 *

 押し入れの奥からは健二のあーとかうーという声が聞こえてくる。埃だらけの桐箱、お菓子の箱、角のつぶれた段ボール箱、そしてそこからはみ出ていた髪がとっ散らかっている人形…居間の床はすでに数多のがらくたでいっぱいになっていた。
「健二さん、なにもね、昔のものを使わなきゃいけないってわけじゃないと思うのよ」
房子は何度目かしれない呼びかけを、無駄とわからずまだかける。
「最近はね、性能がいいのでなければ安いのも随分出てるのよ。そういうの買ってみたっていいと思うのよ」
 押し入れの奥からいくつかのがらくたが犠牲になったとしか思えない破壊的な音がした。そして、健二の「あった!」という叫びがした。
 健二は瓦礫から負傷者を救い出した消防隊員よろしく、手に一つの黒い物体を抱えて押し入れから颯爽と現れた。健二の手にあったのは、黒い少し大きめの化粧ポーチのような皮の入れ物だった。中央の部分にマチがあり、その部分がこんもり外にでっぱっている。健二は皮の蓋を開けて、中を取り出した。
 それは、ストロボ付きのコンパクトカメラ「コニカC35EF」、いわゆる「ピッカリコニカ」だった。1975年に発売され、コンパクトカメラの「型」を作り上げたといっても過言ではない、カメラ史に名を刻むカメラだ。このカメラは国内初のストロボ内蔵型のカメラとして発売され、「ストロボ屋さん、ごめんなさい!」というコピーはテレビを通じて世の多くの人が知るところとなる。
 健二は息子の頭を撫でるようにカメラの機体に触れ、レンズの蓋を外した。両手で構え、房子にファインダーを向ける。房子はとまどいながら、両手を前に重ねレンズのほうを遠慮がちに見つめる。
「あれ?」
 健二はファインダーをのぞくのをやめた。シャッターボタンを何度も押す。が、下がりきらずに戻ってしまう。
「シャッターがバカになっちまった」

 *

4月11日

 週が明けても、桜はまだ咲き誇っていた。今年はずいぶん開花が遅かった。この時期はいつもなら園庭が桃色のじゅうたんになるけれど、今日はまだ土の色が前面に出ている。

朝:隣の住人は二人で暮らし始めた模様。雨戸は園についたときには既に開いていた。9時ごろ、洗濯物を干しに女が庭に現れる。

 あの女が一体何者なのかわからない。年は男とはちょっと離れているように見える。…兄妹? にしては顔が似ていない。そういえば、「さん」づけでお互いを呼ぶ声も聞いた。やっぱり縁故じゃないだろう。じゃあ、なに? 秘密結社? え、やっぱり地獄博士とナラーシャ?

 *

「ダメなやつがなぜダメか、それを考えるのも悪役を観る醍醐味なんだぜ」
 風季(ふき)は一度クマのキャラクターの付いたボールペンを置いてビーズのクッションに身を埋めた。いつも通り、手帳に日記を書きこむ。夜は長い。幼稚園は終わるのが早いけれど、給料も少ないからこうして一人、部屋でおやつを食べながら過ごすぐらいしかできないのだ。友達に会うこともなく、ネットもやらずに(そもそも契約すらしていない)、静かに部屋で明日がやってくるのを待つ。風季の毎日は、そうした繰り返しで成り立っていた。
 風季の部屋は、一つ一つの小物はレースだったりストライプだったり、かわいらしい物ばかりがあふれていた。しかし、どことなく殺風景な雰囲気が否めなかった。全体として部屋をどうしたいのかがわからない。そのため、どの小物もまるで仮住まいに身を寄せる居候になるしかなかった。肩身を狭くして、互いの視線を気にしながら、何も主張すまいと縮こまっている。
 壁には何枚もの写真が楽しげに飾られていた。幼稚園の先生同士の飲み会だったり、卒業した園児だったり、高校の友達と遊びに行った写真だったりと、シチュエーションはさまざまだったが、そのどれにも風季自身は写っていなかった。