小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ

INDEX|7ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

 莉彩の懐妊を知れば、徳宗は歓んでくれるだろう。何しろ四十歳になる今まで、王子どころか王女の一人すらいなかったのだから。
 今日、莉彩は金大妃に突如として囚われ、またしても鞭打ちの刑罰を受けた。幸いにも一度打たれただけのところで徳宗が駆けつけたため、前回のときのような大事にはならなかった。
 だが、妊娠している身体で幾度も鞭打たれていたら、お腹の子はどうなっていたか判らない。最悪の場合、流産したかもしれないのだ。あのときは徳宗の代わりとなって死ぬのなら、構いはしないと思った。その想いは今も何ら変わらない。が、改めて自分の胎内に新しい生命が息づいていることを考えた時、やはり恐怖に身が竦みそうになるのも確かだ。
 莉彩は大妃が怖ろしかった。莉彩の懐妊が発覚した時、大妃がどう出るかを想像しただけで、怖ろしさに叫び出しそうになる。徳宗を憎み、徳宗の大切にするものすべてを根こそぎ破壊し尽くしそうとするあの大妃が莉彩の妊娠を歓ぶはずがない。莉彩の腹が膨らんでくるのを、煮えたぎるような苛立ちと憎しみでもって眺めるだろう。
 もし、大妃の魔手がお腹の子どもにまで伸びたら―。その可能性がないと、誰が言い切れよう?
―孫淑容の代わりに私をその鞭でお打ち下さいませ。
 大妃の前に跪いて懇願していた時、徳宗は泣いていた。莉彩は精悍な王の横顔につたう涙を確かに見たのだ。
 自分の存在がそこまで王を追いつめ、苦しませているのだと知ったときの莉彩の衝撃は大きかった。
 莉彩がこの時代にとどまり続ける限り、大妃は莉彩をしつこく狙い、徳宗は気の休まる暇もないだろう。
 だが、莉彩はそんなことを望んではいなかった。
 徳宗の頬を流れ落ちるひとすじの涙を見ながら、莉彩は、はっきりと悟ったのだ。
 やはり、私は殿下のお歩きになる道の妨げとなる。
 その事実を認めるのは辛いことだった。
 でも、徳宗のためなら、たとえこの生命を投げ打っても良いと思っているこの身だから、自分がここにいることが徳宗の進む道の妨げとなるのなら、哀しくても身を退く覚悟はできた。
 叶うことなら、徳宗と二人でずっとずっと生きてゆきたかった。毎朝、二人で南園を散策し、鳥の囀りや風が樹々の梢を揺らす音に耳を傾けていたかった。徳宗となら、他愛ないことでも何でも話していて愉しかったし、何を話すでもなく寄り添い合っていてさえ、その静けさを心地良いと思えた。
 どうして、私はこの時代のこの国に生まれなかったのだろう。
 どうして、彼が五百六十年前の朝鮮国王でなければならなかったのだろう。
 どうして、はるかな時を隔てて、けしてめぐり逢うはずのない私と彼がめぐり逢ってしまったのだろう。
 別れるために出逢い、出逢ってはまた別れる宿命なんて、あまりにも哀しすぎる。
 出逢えただけでも良かっただなんて、嘘だ。
 本当は離れたくない。ずっといつまでも彼といたい。彼の側にいたい。
 でも、私が彼の側にいたら、彼は聖君と呼ばれる立派な国王にはなれない。大妃が私を傷つけようとすれば、彼はその玉座さえ投げ出してしまうかもしれない。
 ―そんなのはいや。
 私は彼に、後世まで名を残すような英明な君主になって欲しい。
 だから、私は自分からいなくなろう。
 彼の進む道がいつも輝かしいものであることを祈りながら、はるかな時を隔てた遠い場所で生きてゆこう。
 一生に一度きり、大好きになった男と過ごした日々は、私の生涯の宝物になるに違いないから。
 莉彩の眼から大粒の涙が溢れ、とめどなく頬を流れ落ちる。その瞳には強い決意の色が浮かんでいた。

 その夜半、国王のただ一人の妃孫淑容の姿が宮殿から忽然と消えた―。

 莉彩は二人の想い出の場所に佇んでいた。
 そう、都の外れ―、莉彩が十年前に時を飛ぶきっかけとなったあの故郷のY町の町外れにも似た風景だ。
 商家がちらほらと点在する狭い道を抜けた先に現れる橋は、Y町の寂れた商店街の先にある小さな橋と酷似していた。むろん、そっくりそのままというわけではないけれど、ここに立っていると、まるでデジャブを見ているように懐かしいふるさとのあの橋周辺を思い出す。
 莉彩が今、身につけているのはチマチョゴリではない。四ヵ月前にこの時代に現れたときに着ていた通勤用のパステル・ピンクのスーツだ。
 淑容の位階を得てから、莉彩の纏う衣裳は随分ときらびやかになった。それまで着ていた女官のお仕着せではなく、華やかな色合いの美々しいチマチョゴリに代わった。莉彩がお気に入りのリラの簪を挿していても、もう誰も文句を言う者はいなくなった。
 徳宗が明るい色を着せたがるので、莉彩は自然と派手やかな色柄の衣裳を纏うことになる。あまり目立たない色目のものを身に纏っていると、
―そなたには明るい色が似合う。
 と言っては、次々に新しいチマチョゴリを作らせた。
―そのようにたくさん頂いても、着ることができませぬ。
 莉彩は弱り果て、箪笥にしまい込んでいるチマチョゴリを女官たちに分け与え、それを見た徳宗が大いに機嫌を損ねたこともあった。
―殿下、あまり衣装代にお金を使い過ぎると、外聞が悪うございます。
 控えめに言った莉彩に、徳宗が照れたように笑いながら〝確かにそうだな。これでは、女の色香に溺れた好色な王だと誹られても、致し方ない〟と零したことも。
 今となっては、すべてが懐かしい。
 きっと、莉彩は徳宗のことを忘れないだろう。いや、忘れられるはずがない。
 二十六年間の生涯で初めて恋に落ち、生命賭けで愛し抜いたひとだった。
 次々と妃の纏う衣服を新調する徳宗だったが、不思議と簪だけは新しいものを与えることはなかった。
―莉彩には、やはり、りらの花の簪がいちばん相応しい。
 そう言って、艶やかな黒髪を飾るリラの簪を眼を細めて眺めていた。
 パステル・ピンクのスーツを着た莉彩は、今、二人の想い出の場所に立つ。シニヨンにした髪に挿しているのは、もちろんリラの花の簪である。
 この簪は、莉彩がいた二十一世紀に還るには必要不可欠なものだ。莉彩はそっと手を伸ばして簪に触れた。
 アメジストの花びらがひんやりと手のひらに触れる。
 夜空を見上げ、莉彩は溜息をついた。
 不思議なものだ。今回は意図したわけではないのに、空には満ちた月が浮かんでいる。
 満月の夜には不思議なことが起こると、昔から人は言い伝えてきた。やはり、自分が気の遠くなるような時の流れを行き来するのにも、月の満ち欠けは大きな拘わりを持っているのだろうか。
 現代へ戻る決意を固めた夜が満月だったというのは、何か天の意思までもが自分(莉彩)はこの時代にいてはいけないと言っているようだ。
 この選択が正しかったかどうかは、多分、後に記されることになる歴史書が教えてくれるはず。
 ぬばたまの闇にぽっかりと浮かぶクリーム色の月を眺めながら、莉彩は静かに眼を閉じた。
 遠くでまだらな星が時折、思い出したように瞬いている他は何もない静かな、淋しい夜だった。
 現代に還るための呪文なんてあるわけでもないから、ただ、素直に私を元いた時代に戻して下さいと誰にともなく祈った。
 眼裏に浮かぶのは、あの男の笑顔。