約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ
そう思うと、居たたまれなかった。
「お待ち下さいませ」
莉彩は泣きながら叫んだ。
叶うことなら、今すぐに徳宗の側に走り寄りたかったけれど、いまだ台に縛りつけられたままの莉彩は身じろぎもできない。
「私のために、お二人が仲違いなさるのはお止め下さいませ。大妃さま、私はどうなろうと覚悟はできております。ですから、国王殿下とあい争われるのはお止め下さい」
大妃が軽く舌打ちを聞かせた。
「互いに庇い合うとは、真に美しいことだ。だが、そのような愁嘆場を見せて、私を欺こうと考えても、そうはゆかぬ。孫淑容、今日のところは国王殿下の体面もあるゆえ、大目に見よう。したが、次はないと思え。今度、殿下の恩寵を傘に着て傍若無人のふるまいを致せば、そのときこそ力の限り鞭打つぞ」
大妃が言い捨て、背を向ける。そのまま大妃殿に入ってゆこうとするその背に、徳宗の声音が追い縋った。
「大妃さまは、先刻、私が国王ゆえ、鞭打つことはできないと仰せになられました。さりながら、大妃さま、私は国王である前に一人の人間であり、妻を愛する良人、更には、あなたの息子です。私は好んであなたと争っているわけではありません。それだけは憶えておいでになって下さい」
「―おっしゃりたいことは、それだけですか」
大妃はたったひと言そう言うと、一度も徳宗を振り返ることなく建物の中に消えた。
その背中は、小さな年老いた身体には背負いきれぬほどの重い孤独を抱えているように見えた。
大妃がいなくなった後、崔尚宮や女官たちが莉彩に駆け寄り、莉彩は漸く自由の身になった。
「淑容(スギヨン)さま(マーマ)、どこもお怪我はございませんか?」
崔尚宮が蒼白な顔でおろおろしながら訊ねてくる。
莉彩は頷いた。
「大丈夫ゆえ、そのように心配せずとも良い」
その側で、花芳が大泣きしていた。
「申し訳ございません。私がいけないんです。あの女官たちが淑容さまをあんな酷い目に遭わせておきながら、ちっとも反省してないのが悔しくてたまらなくて。つい、言ってはいけないことを口走ってしまったんです」
わあっと泣き伏す花芳の肩を莉彩は優しく叩いた。
「良いのよ。花芳は私のことを思い、ついそんなことを言ってしまったのだから。私の代わりに私が言えなかったことを言ってくれた―、私はそう思っています。だから、もう泣かないで」
「莉彩」
気が付けば、徳宗が傍らに佇んでいた。
「本当に大丈夫か?」
気遣わしげに問われ、莉彩は微笑んだ。
「大事ございませぬ。私は健康だけが取り柄でございますから、これしきのことでは何ともなりませぬ」
だが、王の顔色は晴れなかった。
「さりながら、この頃は薄い粥ですら、ろくに食せぬほど弱っているというではないか。崔尚宮が案じておるぞ。何故、尚薬に診せぬのだ?」
「―」
莉彩がうつむき、押し黙った。
ややあって、消え入るような声で言った。
「夏の疲れが出ただけだと存じますので。わざわざお忙しい尚薬どののお手を煩わせるまでもないかと」
「莉彩」
徳宗が莉彩の肩に両手を置いた。人さし指で顎を持ち上げ、莉彩を上向かせる。
が、莉彩は最後まで王と視線を合わせようとはしない。
「何ゆえ、眼を逸らす? どうして、予を見ようとせぬのだ」
それでも頑なに黙り込む莉彩を見て、徳宗は溜息をついた。
「そなたの意思が強いのはよく存じておる。だが、これだけは約束してくれ。これ以上、今のような状態が続くようなら、そなたがいかに抗おうと、予は尚薬にそなたの診察を命ずるぞ、良いな?」
念を押すように言われ、莉彩はまた涙が零れそうになった。王が莉彩の身を心から心配しているのが判るだけに、尚薬の診察を拒み続けるのが辛かったのだ。
「崔尚宮」
王に呼ばれた崔尚宮が畏まる。
「はい(イエ)」
王は莉彩には聞こえぬように崔尚宮の耳許で囁くように言った。
「孫淑容の体調については十分気をつけるように。何か変わったことがあれば、すぐ知らせよ」
「肝(ミヨ)に銘じまし(ンシマゲツソ)てございます(ニダ)」
王は莉彩をもう一度やるせなさそうな表情で見た。
いつか、きっと
その夜、莉彩は自室で一人、物想いに耽っていた。莉彩の手には、あのリラの簪が握られている。ゴールドの簪に可憐なリラの花が幾つかついたその簪こそが、徳宗と莉彩を結びつけたといっても良い。
莉彩の父が韓国のとある町の露店で見つけた不思議な簪は離れ離れになった恋人たちを結びつける力を秘めている。かつて李氏朝鮮王朝時代、何代めかの国王の寵姫が愛用していた品だという言い伝えがあった。
この簪が五百六十年ものはるかな時の向こうにいる徳宗と莉彩を引き寄せたのだ。
と、突如として莉彩を猛烈な吐き気が襲った。ここ十日余りの間、いつも莉彩を執拗に苦しめてきた。胃の腑からせり上がってくるような吐き気に、莉彩は胸許を押さえ、蹲った。ろくに食べてはいないため、吐いても出でくるのは苦い胃液ばかりだ。
頑固な吐き気は、しばらく莉彩を苛んでからやっと治まった。この吐き気が何なのか、莉彩にはおおよその想像はついた。
むろん、最初はただ胃の調子が狂ったとしか考えていなかった。だが、一週間ほど経っても一向に治まる様子がない。その時、莉彩は愕然とした。
―妊娠したかもしれない。
唐突に浮かんだその疑念を莉彩は考え過ぎだと思った。が、指を折って数えた時、この時代に来てから、一度しか生理が来てないことに気付いたのである。
その点、莉彩は至って順調だった。なのに、月に一度は決まってきていた生理が来ていない。いちばん最後の生理は、この時代に来てから少し経った頃のことだった―。つまり、王に初めて抱かれてから、生理は全く来ていないのだ。その事実を悟った時、莉彩は自分が徳宗の子を身籠もったかもしれないことに思い当たった。
―どうしよう。
莉彩はその事実を知った時、一人で泣いた。
本当なら、歓ぶべきことだった。大好きな男の子どもを授かったのだ。が、王と大妃の確執や自分の立場の複雑さを考える時、やはり素直には歓べないものがあった。
いざ妊娠するまでは、徳宗の子を腕に抱いてみたいと女性らしい願いを持っていたこともあったのに、それが現実となると、ただただ混乱するばかりだった。
莉彩が尚薬の診察を拒んでいるのは、自分の妊娠を知られたくなかったからだ。
或いは崔尚宮は莉彩の懐妊に薄々勘づいているのかもしれない。いつも傍に控えている崔尚宮が今の莉彩の状態を見て、疑念を抱かぬはずがない。なのに、敢えて口にしないのは、肝心の莉彩当人が懐妊の事実を明らかにしたくないことを崔尚宮が見抜いているからだ。
崔尚宮とは、そういう人なのだ。孔尚宮や劉尚宮とは異なり、目立つことはないけれど、他人の心を思いやることのできる人だ。
だからこそ、莉彩も崔尚宮には心を許している。しかし、このことだけは崔尚宮に相談することもできなかった。徳宗の御子を身籠もったことを、誰にも知られたくないのだ。崔尚宮に打ち明ければ、尚薬の診察を受けなければならなくなり、誰もが莉彩の懐妊を知るところとなる。それだけは避けたかった。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ 作家名:東 めぐみ