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約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ

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 たとえ、そのために息絶えてここで生命を落としたとしても、あの男(ひと)のためならば、私は歓んでこの生命を差し出す。
 私がこの時代で生きる意味は、ただあの男の傍にいられることにあるのだから。あの男は私のすべて。だから、あの男への憎しみを代わりにこの身に受けろと言われるのなら、私は自ら進んで鞭打たれる。
 孔尚宮が再び、鞭を振り上げる。
 その瞬間、鋭い声が飛んだ。
「―止めよ!」
 大妃の前に国王―徳宗が静かに歩いてくる。
「大妃(テービ)さま(マーマ)、これは、いかなる仕儀にございましょうか」
 冷えた声音で追及されても、大妃は眉一つ動かさない。
「私の愛する妃をこのような目に遭わせるその理由をお伺い致しましょう」
「この者が不届きにもお閨で国王殿下にあることないことを囁いておると聞きましたゆえ、少々、仕置きが必要かと思いまして」
 澄ました顔で言う大妃を、王が燃えるような眼で睨んだ。
「では、私から申し上げますが、孫淑容が寝所でねだり事をしたことなぞ、金輪際ございません。私が孫淑容の人柄を見込んで中殿にと望んでも、自分は私の側にいられるだけで幸せなのだ、中殿など望んでは仏罰が当たると申します。全く欲のない女なのです」
「な、何ですと? 殿下、今、何と仰せになりましたか。中殿、この女を中殿にですと? とうとう妖婦の色香に惑わされ、正気を失われましたか? 殿下。断じてあり得ない、許されないことです。中殿という重い立場にいずこの馬の骨とも知れぬ卑しい娘を据えることはできませぬ。王妃は国母、この国の母ですぞ。それなりの格式と家柄を持つ家門の娘でなければなりませぬ」
 と、王が端整な貌をふっと歪めた。
「な、何がおかしいのです。私の申していることが間違いだとでも仰せになるのですか」
 大妃が鼻白み、キッと王を睨み返す。
 王は笑みを美しい面に貼り付けたまま、冷え冷えとした声で応えた。
「母上(オバママ)は怖ろしい方だ。賢(キヨン)花(ファ)に汚名を着せた上で、毒を食(は)ませるように私にお命じになった。私はあの世で賢花に顔向けがなりませぬ。一生守ってやると誓いながら、哀しく辛い想いばかりさせ、絶望の中にいる賢花をたった一人で逝かせてしまった。もう二度と愛する者を失いたくはない。死ぬよりも辛い後悔に苛まれ、罪の意識にのたうち回りながら生きてゆくのはご免だ!!」
 それは、魂の叫びともいえる咆哮だった。
 十年前、莉彩を鞭打った大妃に対し、それ以降、王は再び〝母上〟と呼ぶことはなかった。幼少の頃から苛め抜かれた冷淡な義母ではあっても、立場上は〝母〟である大妃を立て礼をもって接してきたのだ。だが、賢花に続き、またしても王の愛する女を傷つけようとした大妃を王は今度は許さなかった。
 それまで内面はともかく表面だけは何とか成り立っていた母子関係が決定的に崩壊した瞬間だった。
 今、王は大妃を確かに〝母上〟と呼んだ。
 しかし、その声音は聞く者の心を凍らせるほどに冷え切っている。
「あなたの母とあなたは、私をとことん苦しめた。あなたの母のお陰で、私は中殿という立場にありながら、まるで日陰の身のように小さくなって宮殿で過ごしたのだ。先王さまの寵愛を一身に集めるそなたの母は後宮で時めき、廷臣たちがご機嫌伺いにゆくのは中殿の私ではなく、側室の淑儀―そなたの母の方であった」
 大妃が悔しげに紅い唇を震わせた。
「それがいかほど口惜しいことだったか、殿下にお判りになられますか? 先王さまが私に初めて良人らしい優しさを見せて下されたのは、私が懐妊したときのことだった。初めての子ゆえ、日々膨らんでくる腹を撫でては生まれてくるのを愉しみになさっていたものだ。だが、折角授かった姫は生まれたその日に亡くなり、先王さまの関心は丁度その頃、後宮に入ったそなたの母に移った」
 大妃の視線がふっと遠くなった。
「何故、私がたった一人の娘を失わねばならなかったのか。亡くなったのがあなたではなく、私の娘でなければならなかったのか。私はずっと運命を呪い続けてきたのだ。私を蔑ろにした先王さまを初め、その原因となったそなたの母やそなたを恨み続けて参った」
 辺りは異様なほどの静けさに包まれた。
 誰も声を発せようとしない。
 意外にもその静けさを破ったのは徳宗だった。王は静かな声音で言った。
「私の母が亡くなった後、初めて大妃さまのおん許に私がご挨拶に行ったときのことを憶えておいでですか?」
―不幸にして淑儀が亡くなった今、これからは中殿がそなたの新しき母となる。そなたはいずれ、世子になる身だ。これ以降は中殿を真の母と思い、孝養を尽くすように。あれは情に厚い女ではないが、幸か不幸か実子がおらぬゆえ、そなたが心から慕えば、また中殿も頑なな心を開き、そなたを子として慈しむであろう。
 父である先王は、母を喪ったばかりの徳宗にそう言い聞かせた。
 しかし、挨拶に来た幼い王子に対して中殿(大妃)は終始、素っ気ない態度で通した。
 あまつさえ、王子にこう言ったのだ。
―立場が立場ゆえ、これからは私を〝母〟と呼ぶことを許しはするが、私は、そなたをけして我が子とは思わぬ。そなたもさよう心得ておくが良い。
 わずか六歳の王子に、大妃は〝そなたを我が子とは思わぬ〟と言い切ったのだ。
 その一件は、徳宗の幼い心に深い傷を残し、拭い去ることのできない翳りを落とした。
 大妃の許を辞して自分の部屋に戻ってから、徳宗は乳母の胸に身を預けて烈しく泣きじゃくった。
―お可哀想に。
 乳母もまた徳宗を抱きしめて泣いた。―その乳母こそが臨淑妍であった。
「母を亡くしたばかりの私に、大妃さまは私をけして我が子とは思わぬと仰せになられました。それでも、私は自分さえ誠意をもってお仕えすれば、いつかは必ず真心が通じると信じてきたのです。たとえ血の繋がりはなくとも、信頼という名の血にも勝る絆ができるはずだと。それでも、今なお大妃さまが私をそれほどまでにお憎しみになっているのなら、それはやはり、私の不徳の致すところでしょう」
 そこで王はひとたび口をつぐみ、小さな吐息をついた。
「ですが、大妃さま。罪は私一人のみのものにて、私の母にしろ亡くなった伊淑儀にしろ、罪はありません。ましてや、この孫淑容はつい最近、入宮したばかりで過去の私たちの確執とは何の拘わりもないのです。どうか、その者たちへのお恨みはお忘れ下さいますよう」
 次の瞬間、その場に居合わせた一同は、あっと息を呑んだ。
 徳宗が大妃の前まで進み、跪いたからだ。
「それでも、どうしても母上が孫淑容に罰を与えると仰せなら、代わりにこの私が罰を受けます。どうぞ私をお気の済むだけ鞭で打って下さいませ」
 徳宗の頬は濡れていた。
「愚かなことを仰せになられますな。あなたはこの国の国王殿下でいらせられますぞ。幾ら私が大妃であろうと、最早、あなたを鞭打つことなどできようはずもない」
 大妃が眉を顰めた。
 莉彩は眼前の光景を到底見ていられなかった。愛する男が―この国の王が義母の面前に跪いて許しを乞うている。莉彩を鞭打つくらいなら、代わりに自分を鞭打てと懇願している。
―私は、これほどまでに殿下を苦しめている。