約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ
何しろ、相手は二人がかりで、花芳は一人である。帰ってきた花芳はチマチョゴリは破れ、髪は引っ張られて乱れ、それはもう無惨な有様だった。眼の回りには、まるでパンダのように蒼アザができている。
そのあまりの惨状に、流石に事なかれ主義の崔尚宮も柳眉を逆立てた。崔尚宮は花芳を連れて大妃殿に赴き、花芳を殴りつけたという女官二人の頬を打った。
そうでもせねば、あまりの仕打ちに溜飲が下がらなかったのだ。だが、常の崔尚宮らしからぬこのふるまいが、更に莉彩を窮地に追い込むことになるとは、崔尚宮はこの時、想像だにしなかった。
崔尚宮に殴られた女官たちが今度は孔尚宮に泣きつく。
「たかが側室に仕える尚宮ごときが上宮の女官の頬を打つとは」
孔尚宮は烈火のごとく怒り、早速、大妃に注進した。大妃はその当事者である二人の娘を呼び、事情を事細かに聞いた。
娘たちを下がらせた後、大妃は甲走った声で孔尚宮に命じたのである。
「孫淑容を直ちに呼ぶのだ。たとえ殿下のご寵愛厚い側室であろうが、こたびの仕儀は到底許しがたい所業である」
大妃からの呼び出しが来て初めて、崔尚宮は己れの取った行動が尚宮としてふさわしくなかったことを知った。しかし、時既に遅かった。
大妃からの呼び出しと聞いて、莉彩は流石に顔色を曇らせた。大妃には十年前にも謂われのない罪で鞭打たれ、酷い目に遭わされたのだ。そのときのことを思い出せば、莉彩は暗澹とした気分になった。
しかし、仮にも国王の嫡母という立場にある大妃に呼ばれて、顔を出さないわけにはゆかない。側室ではあるが、莉彩は徳宗の妻であり、大妃は立場上、姑に当たる。嫁としての礼を尽くさねばならなかった。
大妃殿の前まで来た莉彩がおとないを告げても、大妃はいっかな姿を現さなかった。ゆうに四半刻は庭で立ったまま待たされた挙げ句、漸く大妃が出てきたかと思ったら、いきなり莉彩は女官たちに両脇から押さえつけられ、俄に用意された長方形の台にうつ伏せに寝かされた。
その状態で手脚を縄で台にしっかりと拘束されるという何とも屈辱的な格好をさせられたのである。
付き従ってきた崔尚宮は蒼白になって狼狽えた。
それでなくとも、莉彩はここ半月ほど―八月に入った頃から身体の不調を訴えていた。
食べては吐きを繰り返し、今では松の実粥すら喉を通らぬほど弱っている。尚薬に診て貰うように勧めても、当の莉彩自身が頑なに診察を拒むので、崔尚宮もなすすべがない。
そのため、徳宗からのお召しがあっても、ここのところはずっと辞退しているという憂慮すべき状態が続いていた。
「女官の躾がなっていないのは、その主人(あるじ)たる孫淑容の罪だ」
大妃は紅い唇を歪め、ヒステリックに叫ぶ。
既に七十近い年齢に達しているはずなのに、相も変わらず化粧が見苦しいほど濃い。
「孫淑容、とうとう化けの皮が剥がれたか。主上のご寵愛を賜り、あまつさえ淑容の地位まで手に入れて我が世の春―と得意満面であったようだな。驕るあまり、私に仕える女官の失態を畏れ多くも国王殿下に進言し、殿下より女官を仕置きして頂くようお願いするとは、何たる不届きだ」
莉彩は台に括り付けられたまま眼を瞠った。
「大妃さま、私は誓って、そのようなことを致してはおりませぬ」
それでも身の潔白の証だけは立てたいと口にするが、大妃は嘲笑うような笑みをその面に浮かべているだけだ。
「内命(ネイミヨウ)婦(プ)の監督は後宮で行うものであり、たとえ国王殿下とはいえども無闇に口出しはできぬのがならわし。そなたも仮にも淑容の位階を賜る側室であれば、そのようなことくらい存じておろう。後宮内で起きた揉め事を殿下に訴え、泣きつこうとは殿下にお仕えする者としての配慮が足らぬ。ご政務でお忙しい殿下をつまらぬことでお患わせてしてはならぬとそのようなことが判らぬのか!」
「大妃さま、それは違います。淑容さまは何も悪くはございません。淑容さまから国王殿下に申し上げて頂くと言ったのは、この私の落ち度にございました。今日、私と諍いになったのは、三ヵ月前、淑容さまを南園の池に突き落とした者たちでございました。ゆえに、私はつい悔しくて、口走ってしまったことでございます」
崔尚宮の傍らに控えていた花芳が泣きながら叫んだ。
「守花芳、お黙りなさい」
莉彩が背後を振り返った。
―それ以上、大妃さまに楯突いては駄目。
眼顔で花芳を諭す。
「ええい、控えよッ。全く、淑容が礼儀知らずなら、仕える女官までが礼儀を知らぬと見える。大妃であるこの私に直接、話しかけてくるとは礼儀知らずもはなはだしい」
「孔尚宮。やりなさい」
大妃が顎をしゃくると、孔尚宮が鞭を持って莉彩に近づいた。
「今日という今日は、その歪みきった性根をたたき直してやろう。淑容、そなたは大方、その色香で殿下を夜毎誑かし、ご寝所で様々にねだり事をしておるのであろう。こたびの一件でそれがよく判った」
大妃がはるか前方から唾棄するように言う。
「大妃さま、それはあまりに酷いお言葉にございます。私は、ご寝所でそのようなふるまいを致したことは一度としてございません!」
莉彩の眼に悔し涙が滲む。
何故、どうして、この女はここまで自分を貶め、憎むのか。莉彩を憎むのは、大妃が王を憎んでいるからだ。徳宗が見向きもしない側室であれば、大妃もまた莉彩のことなぞ歯牙にもかけなかったろう。
大妃は義理の息子である徳宗を烈しく憎悪している。先王に熱愛されていた徳宗の生母を呪い、生後まもなく失った自分の娘の代わりに健やかに育った徳宗を憎悪した。
何故、良人である先王は私を蔑ろにされたのか?
何故、私の産んだ姫は夭折したのに、あの憎らしい女の生んだ王子はこんなにも健康で立派に生い立ったのか?
私は、あの女の産んだ子になど、王位を継がせたくはなかった。
折角、私の姪を妻として与えてやったのに、中殿になった姪を哀しませ、愛妾である伊淑儀ばかりを偏愛した憎らしい男。姪は、この不実な男のせいで、亡くなったのだ。
大妃の心の叫びが、莉彩にも届いてくるようだった。
その哀しみは同じ女性として理解できる。けれど、どうして、そこまで他人を逆恨みするのだろう。
良人が振り向かなかったのは、自分の高慢さのせいだと気付けなかったのか。腹を痛めて生んだ翁主が夭折した時、哀しみに負けないで徳宗を我が子として愛することはできなかったのか。
大妃は徳宗の大切にしているものを徹底的に憎み、傷つけようとする。だからこそ、莉彩を新たな標的にし、こうして縛りつけて鞭打とうとするのだ。
「ええい、煩い。孔尚宮!」
金切り声で命じられ、孔尚宮が鞭を振り上げた。
ヒュッと空をつんざく音が響き、莉彩の背中に灼けつくような痛みが走った。十年前に大妃に鞭打たれたときの屈辱と痛みがまざまざと甦る。
しかし、今度の痛みはあの数倍だ。何しろ、台に縛りつけられ、背中を思いきり鞭打たれているのだ。直にチョゴリは破れ、その下の白くやわらかな皮膚は裂け血が流れるだろう。
それでも良い。大妃の憎しみを、この女の背負う怨念を殿下の代わりにこの身が受けているのだと思えば良い。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ 作家名:東 めぐみ