約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ
というのも、莉彩が三月(みつき)前に池に落ちて生命を失いかける事件が起こり、莉彩こと孫淑容に仕える女官たちは皆、大妃殿の女官を快く思っていなかったからである。
正式な側室として位階を与えられるに当たり、後宮のしきたりに則り、莉彩は一つ殿舎を与えられた。それぞれの妃の暮らす宮は独立しており、淑容となった莉彩に仕える女官が新たに選ばれたのだ。
莉彩の上司でもあり後見人であった崔尚宮が新しい淑容付きの尚宮となり、お付き女官の中にはむろん守花芳も入っていた。この時、大妃殿から新たに孫淑容の宮に移ってきたのは、あの太った女官―莉彩の危急を花芳に知らせた金(キム)春陽(チユンニヤン)であった。春陽は動きは遅いが、実直でよく働いた。崔尚宮が眼を回すほどよく食べたが、その名のとおり、春の陽溜まりのような陽気で後を引かない性格は誰からも好まれた。
大妃殿では、身体の大きく動作の緩慢な春陽を陰で〝うすのろ〟と呼び、皆が軽んじていたらしい。だが、莉彩の許に来てからは、そのようなこともなく、かえって春陽の朗らかな気性は人気の元になった。
「お仕えするご主人さまがああ陰険じゃア、女官たちも皆、自然と似てくるわよ」
などと、花芳は実に怖ろしいというか不敬なことを平気で口走っている。
その度に、崔尚宮に窘められるが、ろくに反省もしない。花芳がそこまで強気でいられるのも、実は国王殿下ただ一人の愛妾にして想い人の孫淑容の側近く仕える女官だという自負があったからだ。
今を時めく寵姫の宮は常に笑い声と活気に溢れ、花芳だけでなく概ね、どの女官も明るく負けん気は強い。その若い女官たちを束ねるのが崔尚宮であったが、こちらは莉彩が十年前に初めて入宮してきたときからの後見人、しかもおっとりとした争いを好まぬ人柄のため、かえって、かしましい女官たちとは上手くいっている。
金春陽が莉彩の宮に引き取られたのは、莉彩当人がそう願ったからである。後にすっかり健康を回復してから、莉彩は、春陽が花芳に莉彩の一大事を知らせたと聞いた。もし、春陽があのまま見ぬふりをしていたら、怖ろしいことに莉彩は凍え死んでいたに相違なかった。
あの日は五月初旬とはいえ、池の水はまだかなり冷たかった。水をあまり飲んでいなかったのが幸いして、莉彩は危ういところを九死に一生を得たのだ。それでも、あの状態でひと晩放置されていたら、間違いなく死んでいた。
あの時、春陽は他の二人の女官に脅されて付き合わされただけで、率先して謀を巡らせたようには見えなかった。実際、春陽の人柄を知るにつけ、彼女がそんなことのできる娘ではないと莉彩は知ることになった。
あの事件後も春陽はしばらくは大妃殿にいたが、莉彩のことを花芳に知らせたのが露見、大妃殿には居辛くなった。莉彩が春陽を引き取ったのは、それが最大の理由であった。
元々、大妃殿は春陽にとって居心地の良い場所ではなかったため、歓んで移ってきたのだ。莉彩付きの女官になってからというもの、春陽は〝お優しい淑容さま〟の信奉者の一人となった。
「大きな声じゃ言えないけれど、以前お仕えしていた大妃さまと淑容さまとじゃ、鬼と菩薩さまくらいの差があるわ。大妃さまは、ちょっとしたことでもすぐに癇性に騒ぎ立てて、あたしたち女官はいつも怒られるんじゃないかって、びくびくしてなきゃいけなかったの。大妃さまがその調子だから、お付きの孔尚宮さまも神経尖らせてピリピリしてるしね。あたしは、こっちに来させて貰って良かったわぁ」
これは、春陽が莉彩に仕えるようになって洩らした言葉である。大妃殿での生活が相当のプレッシャーになっていたのか、愕くべきことに、莉彩の宮に来てからは春陽の吃音は嘘のように直った。
莉彩の起居する宮は、女官たちも心を一つにして女主人である莉彩に仕えている。それは他ならぬ莉彩自身が大らかな心で彼女たちに接しているからでもあった。けじめはつけるけれど、無茶な要求はけしてしないし、時にはお八ツのお菓子の大盤振る舞いがあり、それが何より若い女官たちを歓ばせた。
何と言っても、莉彩は若い女の子が甘い物が大好きだと知っているし、いまだに彼女自身がお菓子には眼がないのだ。莉彩のお菓子好きは徳宗もよく知っていて、時にはそのことで徳宗からからかわれる有様だ。
莉彩は生来、人を惹きつける力を持っていた。現代風にいえば、カリスマ性とでもいうのだろうか。正式な妃となった今は、流石に莉彩に女官時代のように用事を押しつける者はいないが、莉彩は見苦しくない程度には自分のことは自分でするように心がけていた。
高貴な女人というものは、どんな些細な事でも他人の手を借りてやって貰うのが当たり前だというのはこの時代に来て初めて知ったことだ。気軽に何でも自分でやってしまう莉彩はいささか風変わりなお妃だと思われいるらしいが、国王の唯一の妃だということで居丈高になるわけでもなく、下っ端の女官見習いにまで優しく気遣いを示す。
そんな姿は、身分に拘らない徳宗と似ている―、まさにお似合いのご夫婦だと言った女官もいた。
そして。暦は既に八月に入っていたある日、その事件が起こったのである。井戸端で洗濯をする順番を待っていた若い女官たちの間でちょっとした諍いがあった。
いよいよ自分たちの順番が来た花芳と春陽は山のような洗濯物を抱え、洗濯を始めた。そこに突如として横槍が入ったのだ。
「あら、私たちは、お前たちが来る一刻以上も前から順番を待っていたのよ? それなのに、先に洗濯を始めるなんて許せないわね、この泥棒猫!」
「泥棒猫ですって? 何て失礼な物言いでしょう。それに、あなたたちにお前呼ばわりされる憶えは私たちにはありませんから」
勝ち気な花芳が売られた喧嘩を買ってしまった。
「大体、順番を待っていたって言うけど、あなたたち、どこにもいなかったじゃない」
花芳の問いは当然だった。と、あろうことに、相手は平然と言ったのだ。
「厠に行っていたのよ」
「あらまぁ、随分と長い厠だことね。そんなに長い間、厠に籠もって、何をへり出したのやら」
「まっ、お仕えするお方がお方なら、仕える女官も女官ね。生まれ育ちが知れる下品な物言いだこと」
「何ですって? 私たちのことは何と言っても構わないけれど、淑容さまのことを悪く言うのは許せないわ。良いわ、私が淑容さまに申し上げて、淑容さまから国王殿下にお話して貰うことにする。きっと殿下からきついお叱りがあるわよ」
幾らカッとなったとはいえ、これは、けして口にしてはならない言葉であった。花芳は、とんでもない失態を犯したのだ。
しかも、運の悪いことに、相手は大妃殿の女官であった。二人組の中の一人は花芳の知らない顔だったが、もう一人は、例の莉彩を池に投げ込んだ片割れだった。背の高いひょろ長い、いけ好かない女だ。
花芳がその時、いつも以上にムキになったのも、大切な主人である莉彩を酷い目に遭わせた張本人だった―というのもあった。
結局、口論で始まった喧嘩は、最後には殴り合い、掴み合いの大喧嘩になった。大人しい春陽は直接加わることはなかったが、春陽が泣きながら宮に知らせに戻ったことで、事が莉彩にまで伝わることになった。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ 作家名:東 めぐみ