約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ
宮廷医でもある尚薬をひそかに呼んで訊ねても、特に王の健康に問題はないと断言する。
「そなたには何でも丸判りだな、隠し事はできない」
王は苦笑いしながら、最近の朝廷での様子を語った。
それは昨日の朝のことだった。
徳宗を中心とする改革派のメンバーが集まり、会談の場を持ったのだ。出席したのは吏曹参(チヤン)判(パン)である孫東善を初めとした三人である。
もとより公式の会議ではなく、ごく私的な会合であった。
―孫大監がこちらに乗り換えたことによって、保守派は大いに混乱しております。この際、機会に乗じて一気に叩き潰してはいかがでしょう?
兵(ピヨン)書(ジヨ)参(チヤ)知(ムチ)の張(チヤン)尚(サン)顕(ヒヨン)が身を乗り出して発言する。
参知というのは、その部署では上から三番目の位を意味する。ちなみに筆頭は〝判(パン)書(ソ)〟、二番目は〝参(チヤン)判(パン)〟だ。
―しかし、一網打尽にするとは申しても、何の落ち度もないものをいかにして叩けば良いのだ? 明確な理由がない。
徳宗は困惑しながらも応えた。
と、尚顕はニヤリと口角を笑みの形に引き上げた。
―理由がなければ、作ればよろしいではございませぬか。
―馬鹿な。我等の志はあくまでも政道を正すこと、本来あるべき姿に戻すことであって、相手を陥れる謀を巡らしているわけではないのだぞ。そのような罠を仕掛けるような卑怯な真似は予はできぬ。
徳宗が不快感を露わにすると、尚顕は大仰な溜息をわざとらしくついて見せた。
―殿下、そのような青臭い若造のようなことをいつまでも仰せになっていては、我等の本懐を遂げることは叶いませぬ。
五十歳になる尚顕に若造呼ばわりされた四十歳の王は、流石に眉をつり上げた。
―兵書参知、そなたは予を青臭い若造と申して愚弄致す気か?
険悪な雰囲気になった二人の間に、孫東善が割って入った。
―尚顕どのも少し言葉が過ぎましょう。いかに殿下がご寛容なるお方とはいえ、臣として国王殿下に対する適切な物言いとは思えませぬ。殿下、殿下もどうかお心を鎮められますよう。尚顕どのも冗談が過ぎただけにござりましょう。
とりなすように言う東善に、尚顕は声を荒げた。
―東善どのこそ、一体、誰の味方で、どちちを支持しておられるのですかな? 考えてみれば、そなたは孫大監が我々の方に寝返られてからすぐに吏曹参判に昇格された。孫大監が我が革新派においでになった暁にこそ、きゃつらを一挙に叩きのめすという段取りになっていたはずなのに、何故、いつまで経っても手をこまねいているのですか!? 東善どのはご自分の立身と保身だけできていれば、それで良いと? 大体、孫大監は今一つ信用できませぬ。あの御仁は真、我等の方に付くおつもりなのでしょうか。こちらに寝返ったのは実は見せかけだけであって、本当のところはいまだに大妃さま一味と繋がっているのではありませんか?
―兵書参知。そなたは自分の申していることが判っておるのか? 到底、正気とは思えぬ言葉だ。仲間を信頼せずして、いかがする? 自分が人を疑えば、人もまた自分に疑念を抱くようになる。そうやって生まれた不信の芽が大きくはびこり、改革派の土台そのものが危うくなるのが、そなたには判らぬはずもなかろう。ここには孫大監の孫である東善もいるのだぞ? 孫の前で大監を愚弄するというのか!
徳宗が憮然として言うと、尚顕はそのまま席を立ってしまった。
―どうやら、今日のところは私、頭を冷やして出直して参った方がよろしいようにございます。失礼ながら、これにて退出させて頂きまする。
―東善、尚顕も何も本気で申したわけではなかろう。あまり気にするでないぞ。
王は幼い頃からの親友でもある東善を宥めるように言った。
東善は呆れたように肩をすくめる。
―確かに我が祖父は、私が申すのも何ですが、計り知れないところがありますからね。祖父が我々保守派につく気になったのは、やはり何と言っても殿下ご寵愛の孫淑容さまの後ろ盾となったことが最大の原因ですゆえ。祖父は見かけは好々爺ですが、内面はとんでもない腹黒い狸です。孫淑容さまがいずれ殿下の王子をお生みになる可能性に賭けているのですよ。ですから、その望みが叶えられなかったときには、正直、祖父がどう出るかは私にも判りません。
その後、東善もまた改革については慎重を期すべきで、徳宗と同意見だと述べた。
―大義名分だけを振りかざしたとて、内実が伴わなければ得るところは何もありません。向こうに何の落ち度もなく、表立った示威行動もないのに、こちらが下手に動けば、かえって脚許を掬われるでしょう。最悪、我々のしていること自体が無意味どころか、単なる私利私欲のための謀略だと言われかねませんよ。祖父の動向はともかく、今はまだ動くべきではないでしょうね。何か仕掛けてくるとすれば、あちらは必ずいつかは動くはずです。たとえ根比べになったとしても、先に動いた方が負ける―、それだけは明白です。
結局、その日の会合はこれといった実りもないままに終わった。
そのさんざんな結果に終わった会談の顛末を莉彩に語った後、王は疲れ切ったように吐息をついた。
「おかしなことだ。元々、改革派はその名のごとく、旧弊な因習―権門からばかり大臣を出すことを止めさせることが目的だった。淀んだ朝廷内の人事を刷新し、政治に新しい風を吹き込むことこそが予の夢であり、悲願であった。それが、今やどうだ? 改革は名ばかりとなり、同志である仲間を疑い、相手を陥れることしか念頭にない。これでは、大妃の率いる保守派と何ら変わりないではないか」
どうやら、孫大監が保守派から革新派に寝返ったことは、今のところはあまり良い影響を与えていないらしい。淑妍の思惑は目下、当たってはいないようだ。
それに―、孫大監が莉彩の生むであろう王子に期待を賭けているという話もまた莉彩には憂鬱だった。
孫大監の腹は読めている。養女の生んだ王子―即ち外孫を世子に立て、ゆく末は国王の外戚として権力をふるおうと考えているのだ。左議政の地位にある現在も十分に栄華を極めていると思うのだが、人間というものはやはり、更に大きな権力を望むものなのだろうか。
徳宗の寵愛を受けるようになった今、子どもは欲しい。―たとえ、それが歴史にまた新たな影響を与えることになったとしても、愛する男の子を身籠もり、生みたいと願うのは女としてはごく自然だ。
けれど、莉彩はできるだけ王子ではなく翁主(王女)を授かりたいと思っている。男の子ではなく女の子なら、歴史への関与も極力少なくて済むし、何より王位を巡る争いや政争に巻き込まれることもない。それは、母として子の幸せと安寧を願う気持ちから考えたことだ。
もし、子どもを授かるその日まで、自分が徳宗の傍にいられるとすればの話ではあるけれど。
「殿下は代わりのきかない大切な御身です。民にとって国を統べる殿下は父たる存在、父親が健やかでなければ、子である民もまた憂えましょう。どうか、朝鮮の国の民のためにも、お身体を労って下さいませ」
莉彩の心からの言葉に、王は力ない微笑みを浮かべて、それでも幾度も頷いた。
その事件は、起こるべくして起こった。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅲ 作家名:東 めぐみ