約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ
花芳はもう顔も上げられなかった。王のあまりの怒りの深さにただただ怖ろしくてたまらない。
「守女官はご苦労であった」
〝もう下がって良い〟と言われ、花芳と太った女官は這々の体で御前を下がった。
もしかしたら、自分が金大妃に仕える女官たちのことを密告したと、後で大妃や孔尚宮に睨まれることになるかもしれない。そうなればそうなったで、後宮にはいられなくなるだろう。
大妃は怖ろしい女だ。ひそやかな噂でしか知らないけれど、敵や気に入らぬ者を蹴落とすためには手段を選ばないという。かつて大妃に疎まれ、王の寵愛を一身に集めていたという寵妃が大妃の手によって消された。
それも、ありもしない姦通事件をでっち上げられ、不名誉極まりない罪を着せられて服毒死させられたのだ。大妃の残酷さは、自らの手でその寵妃を殺さず、妃を熱愛する王に愛妃がひそかに浮気していると囁き、その嫉妬心を煽り立てたところにある。まだ二十歳になったばかりだった王は嫉妬に狂い、無実を訴える妃の言い分を聞こうともせず、大妃の言うがままに毒を与え、自ら自害するように妃に命じた―。
王の熱愛する妃ですら、そうなのだから、たかだか一介の女官を始末することなど、大妃にとっては痛くもかゆくもないだろう。
ああ、このことで大妃に睨まれたら、もう宮殿では生きてはゆけない。
花芳はうなだれながら、大殿を退出した。
だが、裏腹に、蒼白だった臨女官の顔を思い起こし、やはり、あのまま臨女官を見捨てることはできなかったとも思うのだった。
それからしばらくの間、花芳は良心と保身の狭間で苦しむことになった。
が、彼女が莉彩の不幸を誰にも知らせず、莉彩を真っすぐに王の許に運んだことは莉彩自身の運命を大きく変えることになる。
王はしばらく思案した後、莉彩を抱き上げ、別の宮にある彼女の部屋に運んだ。
ぐったりした莉彩の姿を見た崔尚宮は色を失った。
「殿下、何事が起きたのでございましょう」
莉彩を娘のように可愛がる崔尚宮だけに、その取り乱し様も尋常ではなかった。
既に陽は落ち、宮殿は宵闇の底に沈んでいる。王はすぐに崔尚宮に尚薬を呼ぶように命じ、自らは莉彩の枕辺に座った。
ほどなく尚薬が駆けつけ、莉彩の様子を丹念に診察した。
「どうだ? 助かるであろうな」
水を打ったようなしじまの中、王の苛立った声が響く。
既に老齢に達していると言って良い尚薬は難しげな表情で首を振った。
「判りませぬ。この状態で長らく放っておかれたのでありましょう。脈も弱くなっております。とにかく身体が冷え切っておりますゆえ、温めることが何より肝要かと存じます。まずは濡れた衣服を改め、乾いた清潔なものに取り替えた方がよろしいかと」
王は苛立ちを隠せない様子で声高に叫んだ。
「崔尚宮」
すぐに扉が開き、崔尚宮が顔を覗かせる。
「この部屋をできるだけ温めて欲しい」
崔尚宮は頷き、火鉢を幾つか女官に運ばせた。数個の火鉢に火を熾したお陰で、部屋は直に暖かくなり、汗ばむほどになった。
「殿下、臨女官を着替えさせますゆえ、どうかその間だけお外でお待ち下さいませ」
崔尚宮が控えめに言上するのに、王は首を振った。
「良い、莉彩は誰にも触れさせぬ。私がやろう」
「しかしながら―」
流石に崔尚宮は異を唱えた。
彼女は莉彩がまだ清らかな身体であることを知っている。たとえ後宮でどのような噂がはびこっていようが、莉彩の身の潔白を知っているのだ。
たとえ意識を失っているとはいえ、男性の手によって着替えなどさせては不憫だと思ったのである。衣服を脱がせれば、当然、膚をその男の眼に晒すことになる。相手が国王殿下にせよ、莉彩当人の同意も得ず、そのようなことはさせられないと判断したのだ。
「崔尚宮、莉彩のことについては予が必ずや責任を持つ。だから、今夜は予に任せてくれ」
そこまで言われては、崔尚宮も了承しないわけにはゆかなかった。
「それでは、殿下。お願い致しまする」
崔尚宮は深く一礼すると、静かに扉を閉めた。気遣わしげに背後を振り返った後、小さな吐息をついて、廊下を歩き去ってゆく。
王はしばらく無言で莉彩を見つめていた。
枕許には崔尚宮が用意した清潔な着替えが置いてある。
王は迷うことなく掛け衾(ふすま)を捲り、莉彩の着ているチョゴリの紐を解いた。
懐からリラの花の簪が出てきて、王は眼を瞠った。二人を結びつけた簪、莉彩をこの時代に導いた不思議な能力(ちから)を秘めた簪―、莉彩にとっては肌身離さず持っているほど大切な品に違いない。
王はリラの簪をそっと枕辺に置いた。
チョゴリを脱がせ、白の下着も剥ぎ取ると、その下には胸に幾重にも巻いた布が現れる。その下の豊かな膨らみについ眼がいってしまい、王は狼狽えて眼を背けた。
だが、そんなことをしているべきではないと自らを抑え、視線を莉彩に戻した。それでも、雪花石膏のように白くなめらかな膚を目の当たりにすると、思わずハッと眼を奪われてしまう。
―私は何をしているのだ。
意識を失って生死の境を彷徨っている女に欲情するなぞ、どうかしている。
王は自らを叱咤し、莉彩の胸に巻いた布を解いていった。
「―」
布の下には、波打つ乳房が隠れていた。純白の膚には傷一つなく、たっぷりとした双つの膨らみの頂には淡い桜色の蕾が可憐に息づいている。
王は知らずその乳房の先端に触れようと手を伸ばしていた。
そのときだった。眼を固く閉じたままの莉彩がかすかに身を震わせた。震えは次第に烈しくなり、まるで瘧にでもかかったかのように烈しく震え続ける。
王が我に返り、慌てて手を引っ込める。
―私は最低の男だな。
と、自嘲する。莉彩の肢体は豊満で確かに男にとっては魅力的には違いないが、こんなときに意識のない女の身体を弄ぼうなどする自分は獣よりも始末に負えない。
その間にも、莉彩の震えはますます烈しくなってゆく。
気遣わしげに莉彩を見つめる王の瞳に、躊躇いの色が浮かんだ。しかし、それは一瞬のことで、躊躇いは決意に変わる。
王はもう躊躇わず、莉彩の下半身を覆っているチマも脱がせた。これで莉彩は一糸纏わぬ裸身を王の前に見せることになった。
すんなりとした形の良い脚の狭間に息づく淡い繁みや秘所をちらりと見つめ、王は己れの中に浮かぶ邪な劣情を追い払うように小さ首を振る。
自分も衣服を脱いで裸になると、莉彩のやわらかな身体を抱いて共に布団に横たわり掛け衾(ふすま)にくるまった。
「死ぬな、莉彩。頼むから、私を置いて逝かないでくれ」
王が莉彩の耳許で囁きながら、その華奢な身体を力一杯抱きしめる。
か細い身体はゾッとするほど冷たかった。
部屋の中はこれほどまでに温かいというのに、莉彩の身体はまるで魂を喪った抜け殻のように凍えきっている。
王は怖れた。このまま愛する女の魂が現身(うつしみ)をさまよい出て、二度と戻ってこなくなることを怖れ、莉彩を禍々しい死に神から守るかのようにその力強い腕で抱きしめた。
もう、二度と愛する女を失いたくない。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ 作家名:東 めぐみ