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約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ

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「何をしてるのよ? 早く誰か人を呼ばなくちゃ。それよりも医者、医者よ。尚(サン)薬(ヤク)(宮廷医、宦官)どのを呼んできて」
 花芳は背後でおろおろしている娘を怒鳴りつけた。
「何故、こんなになるまで放っておいたの?」
「わ、私、怖くて。さ、尚宮さまに叱られるから、ど、どうしても、い、言えなくて」
 そこで、花芳はハッと思い当たった。
「まさか大妃さまの宮の女官たちが、こんな酷いことを?」
「わ、私は止めようって言ったのにィ。あ、あの人たちが私を引っ張り出して、こ、こんな、こ、ことに。だから、私、こんなことがばれたら、さ、尚宮さまにし、叱られるんじゃないかと思って」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。人ひとりの生命がかかってるのに」
 叱り飛ばされ、太っちょ女官が泣き出した。
 その時、花芳ははたと思い直した。
 わあわあと破(や)れ鐘も負けんばかりに盛大な泣き声を上げる女官の傍らで、妙に冷静に考えたのである。
 花芳のように、臨女官を慕う者は後宮女官の中にも結構多い。皆、臨女官よりも格下だったり、幼かったりする女官たちだ。また、朋輩から妬まれる臨女官を気の毒に思う心ある者たちもいるのだが、他の女官に睨まれるのが厭で表立って臨女官の味方ができないでいる。
 今の臨女官の立場は微妙なのだ。これが正式に認められた側室であれば、女官たちは誰もが臨女官に一目置いて、へりくだらねばならない。国王殿下がそこまで臨女官に執心あそばされているのなら、早くに位階を与え、正式な側室とすれば良いのだが、どういうわけか、国王殿下は臨女官を一女官のままにしている。
 曖昧な国王殿下の態度―或いは優柔不断さが余計に臨女官を窮地に陥れている。こういう時、男という生きものは上は国王から下はその日暮らしの庶民まで、つくづく卑怯だと思わずにはいられない。
 が。少なくとも、臨女官を憎んでいる女官たちの手に臨女官を託すよりは、国王殿下に知らせた方が良いのではないかと花芳は素早く考えを巡らせた。
 花芳は、まだ泣いている女官に言い聞かせた。
「良い、これから私が言うことをよく聞いて。臨女官のことは、誰にも言っちゃ駄目よ?」
 女官はそれでもまだ泣いていたが、やがて、パッと泣き止んだ。その丸い顔は涙でぐしゃぐしゃで、到底見ていられない。
「え、で、でもっ。このままじゃ、本当にし、死んじゃうわ」
「大丈夫、私が必ず何とかするから。あなたはこれから何もなかったような顔で大妃殿に戻るのよ。臨女官をこんな目に遭わせた人たちが何を訊いても、知らないって言うの。良い、判ったわね? もし、あなたがこのことを明日の朝まで誰にも言わなかったら、私、あなたが今回の事件には何の拘わりもないってことを孔尚宮さまに証言してあげる」
「ほ、本当にっ?」
「本当よ、約束する。その代わり、もし誰かに少しでも喋ったら、あなたも臨女官をこんな目に遭わせた首謀者の一人だって言うわ」
「い、臨女官は主上の想い人だっていう、もっ、専らの噂の女なのに。こんなことが主上にし、知れたら、私は殺されるわー」
 女官はおいおいとまた泣き出す始末。
 花芳は内心、舌打ちしたいのを堪えた。
「あとは少し力を貸してちょうだい。臨女官をさるお方のところまで運ぶの」
 体格の良い女官に臨女官を背負わせ、花芳は大殿までひた走った。臨女官を背負った太っちょ娘はそのせいで自分までびしょ濡れで、流石にこれには不満そうだったが、頓着してはいられない。事は一刻を争うのだから。
 大殿まで来たときには、あまりに急いだせいで、脚自慢の花芳も息が切れていた。
 大殿付きの内官に国王殿下に取り次いで欲しいと話すと、年嵩の内官は三人を見て露骨に眉をしかめた。それにしても、厳格で知られる劉尚宮がこの場にいなかったのは、せめてもの幸いだった。
「国王(チユサン)殿下(チヨナー)、女官の守花芳がお目通りを願っております」
 内官が部屋の外から声をかけると、ほどなく〝入れ(トラヘラ)〟と声が返ってきた。
 扉が内官たちによって開かれ、その隙に花芳が臨女官をおぶった女官と共にすべり込んだ。
 本来なら、花芳のような下級女官が国王の尊顔を拝し奉ることはない。国王も訝しげな表情ではあったが、平素から身分に拘ることなく誰にでも親しげに声をかける人柄で知られている。たとえ一介の下っ端女官でも自ら面会を求めてきたからには、逢ってやろうと思ったのだろう。
 これが劉尚宮がいれば、必ず王にお目通りは許されなかっただろうが。
「国王殿下、大変ことになりましてございます」
 進言を許され、花芳は咳き込んで言った。
「大変なこと、とは?」
 更に当惑顔の国王は、噂に違わず美男だった。四十歳という男盛りに本来の端整な美貌、更には王者らしい威風堂々とした男ぶりは、こんなときですら、花芳の眼を奪った。
 醜い小男ですら、錦の衣をその身に纏い、玉座にふんぞり返っていれば、女は誰もが国王に見初められたいと願うものなのに、徳宗は容姿、君主としての徳、王とは思えないほどの親しみやすい人柄とおよそすべてのものを兼ね備えていた。
 このような男ぶりも良い国王に愛される臨女官を朋輩女官たちが羨望し、意地悪をしたくなる気持ちも―少しは判るような気がした花芳だった。もっとも、だからといって、姉のように慕う臨女官をこのように半生半死の目に遭わせた者たちをけして許すつもりはないけれど。
「臨女官が池に落ちたようにございます」
 花芳が促すと、畏れ多さのあまり失神しそうになった太っちょ女官が震えながら臨女官を降ろし、そっと床に横たえた。
「莉彩!?」
 そのとのき王の顔は、確かに見物だった―と、花芳は後から何度も思い返した。ある意味では感動的でもあり、またある意味では、女一人の生き死にで一国の王たる人がここまで取り乱し狼狽えるものかと滑稽でさえあった。
「莉彩ッ」
 王はまろぶようにして臨女官に近づき、その腕で臨女官を抱え起こす。
「一体、これは、いかなることか?」
 その問いが自分に向けられたものであると知り、花芳は慌てて眼を伏せた。
 よもや、あの美男の国王殿下の逞しい腕に抱かれた臨女官が羨ましいなどと考えていたとはおくびにも出せない。
「国王殿下、どうやら臨女官は他の者に陥れられたようにございます。南園の池に突き落とされたようで、私どもが助けたときには、既にこのような有様にございました」
 王は花芳の科白を最後まで聞いてはいなかったようだ。
「許さぬ」
 ややあって王の口から落ちた呟きは、思わず凍りついてしまうほど冷たい声だった。
 まるで先刻までの王とは別人のような変貌ぶりだ。
「守女官に訊ねる。臨女官を池に投げ込んだというのは、同じ女官どもの仕業なのか?」
「―はい(イエ)、殿下(チヨナー)」
 花芳はもう凛々しい王に見惚れているとごろではなくなった。王の冷静さは、かえってその逆鱗の深さ、烈しさを物語っているようだ。
 震える声で応える花芳に、王が今一度訊ねた。
「その女官というのは、どこの宮の者か」
 流石に唇がわなないた。
 花芳の躊躇いを見て、王はすべてを悟ったらしい。
「―大妃殿の女官なのか?」
「はい、殿下」