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約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ

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 二十年前、若さゆえの愚かさから伊淑儀を失ってからというもの、彼は暗闇に囚われて続けてきた。人を愛し、信ずることなどできないと頑なに孤独な殻に閉じこもり続けてきた。そんな彼にとってひとすじの光となり、手を差しのべて絶望の底から救い出してくれたのが莉彩だったのだ。
 この女を失えば、恐らく自分は今度こそ、生ける屍と化すだろう。
 だから、失えない、失いたくない。
 王は莉彩の身体に少しでも温もりを分け与えるようにかき抱き、自らの生命を注ぎ込むかのようにその唇に自らの唇を押し当てた。
 どれくらい経ったのか。
 到底眠れないだろうと思っていたにも拘わらず、王は莉彩を腕に抱いたまま浅い眠りに落ちたらしかった。
 それでも、一刻も経ってはいないのだろう、部屋の外はいまだ暗く、夜の色に染まっている。その時、王の腕の中で、莉彩がかすかに身を捩った。
 ハッと我に返った王が莉彩を覗き込む。
 莉彩の長い睫が細かく震え、瞳がゆっくりと開いた。
「莉彩?」
「私―」
 莉彩が頼りなげな声で呟いた。その瞳はまるで親鳥にはぐれた雛のように不安に揺れている。
 王の心は女への愛おしさに締めつけられた。
―ああ、天地(チヨンチ)四(シン)明(ミヨン)の神よ、私の願いをお聞き入れ下さり、ありがとうございます。
 自分でもさして信仰心のある方だとは思ったことはないが、これほど神に真剣に祈り、感謝を捧げたことはいまだかつてなかった。
「ずっと気を失っていたのだ」
 幼子に言い聞かせるように言うと、莉彩が眼をまたたかせた。
「私、池に落ちたんです。でも、もう駄目かと思ってたのに、どうして―? 助かったの?」
「怖い目に遭ったのだな。もう、大丈夫だ。そなたを二度とこんな目には遭わせぬ。そなたを苦しめた者たちの正体は判っている。大妃殿の女官たちは、私が厳罰に処してやる。このような馬鹿げたことは二度と考えつかぬように懲らしめてやろう」
 優しく囁きかける王に、莉彩が嫌々をするように小さく首を振った。
「殿下、それだけはなりませぬ。私のために、大妃さまと争おうなどとお考えにならないで下さい」
「何故だ? あのような女をそなたが庇う必要はない。そなたは危うく生命を落とすところだったのだぞ?」
 王が語気も鋭く言うと、莉彩は微笑んだ。
「このたびのことが大妃さまの差し金だとは思えません。大妃さまであれば、私を池に落とせなどという子どもじみたことを命じたりはなさいませんでしょう。女官たちが意趣返しに勝手にやったことですので、大妃さまにお咎めなどございませんようにお願いします」
「うむ、それは確かにそなたの申すとおりではあろうが」
 王は不満げに唸る。
 考えてみれば、莉彩の言うとおりだ。あの狡猾で誇り高い女が、女官を使って、しかも昼日中に池に突き落とすなどという幼稚な手段を使うはずはない。
 それにしてもと、王は莉彩の聡明さと優しさにつくづく打たれた。どんなときでも、自分の感情に溺れるということがない女だ。死地をさまよった直後でさえ、自分を陥れようとしたかもしれない相手を思いやり、状況を冷静に分析することができる。
 並の女にはできないことだ。まさに中殿としての器をすべて兼ね備えている。こんな女であれば、国王の伴侶―王妃としては理想的だろう。
 莉彩を、妻に、迎えたい。
 その時、王の中で心が決まった。
「莉彩、私のものになってくれぬか?」
 莉彩の黒い瞳が大きく見開かれた。
 王はそろりと手を伸ばす。その指先がそっと薄く色づいた胸の先端を掠めた。
「―!!」
 莉彩が改めて我に返ったように、ピクリと身を震わせる。自分が何も身につけていないのを知り、その白い頬に朱が散った。いや、頬だけではない、剥き出しになった裸の肩もほんのりと桜色に染まっている。
「生涯そなただけだと今、ここで約束しよう。私は今後、そなた以外の女には触れぬ。そなたさえ傍にいてくれさえすれば、私はそれで十分なのだ」
 王の表情はどこまでも真摯だった。
 大きな手のひらに胸の膨らみを包み込まれ、莉彩は身を竦めた。
 その瞳が見る間に潤み、涙の雫を宿した。
 まだ、心の準備ができていないのだ―、王はすぐに莉彩の恐怖を察した。その双眸には怯えが浮かんでいる。
 もしかしたら、自分は卑怯なことをしようとしているのかもしれない。だが、今夜、王はもう行為を止めるつもりはなかった。
 できれば、莉彩に無理強いはしたくない、手籠めのような形で莉彩の身体を奪いたくはなかった。
「今夜、どうしても?」
 消え入るような声音で訴える莉彩に、王は深く頷いた。
「どうしてもだ」
「―怖い」
 莉彩が呟き、涙を零すと、王は頬を流れ落ちるその涙を唇で吸い取った。
「大丈夫、酷いことはしないから、私に任せて」
 小刻みに震える莉彩の背を撫でさすり、安心させるように微笑みかける。
 そっと飾り紐を外し、編んだ髪を解くと、莉彩の丈なす長い黒髪が背中を滝のように流れ落ちる。艶やかな髪をこの上なく大切な宝物を扱うかのようにそっと梳きながら、王は莉彩のふくよかな乳房に顔を埋(うず)めた。

 
  対立


 月夜に伽耶琴(カヤグム)の音色が冴え渡る。
 想い人のつま弾く音に聞き入りながら夜空を眺めていた王がふっと振り返った。
 今宵、莉彩は大殿の王の寝所に伺候した。初めて結ばれてから、ふた月が経っていた。その間、莉彩は既に幾度も王と褥を共にしている。
 今は七月初旬、夏の暑い盛りだ。夏のこととて、廊下側ではなく外に面した扉は開け放っている。王はその際に佇み、飽くこともなく月を眺めているのだった。
 伽耶琴の音色が止み、辺りは森閑として静けさに満たされた。
「孫淑容(スギヨン)、予は満月は嫌いだ」
 王はまるで三つの子どもが拗ねたような口調で言う。
 そういえば、今夜は丸々と肥えた月が菫色の空を飾っていた。
 莉彩は今では〝孫淑容〟と呼ばれている。〝淑容〟というのは後宮での妃の地位で上から数えると十八階級六番目になる。徳宗自身はせめて淑儀(十八階級四番目)に叙したかったようだが、大妃の手前も慮り最終的に淑容という立場に決まった。
 正式な妃として認められると同時に、莉彩は養母の臨尚宮の願いどおり、左議政の孫大監の養女となった。これに伴い、名前も臨莉彩から孫莉彩に変わる。