小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ

INDEX|6ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

 その日も長い一日が終わり、黄昏時の蜜色の光が広大な宮殿を黄金色(きんいろ)に染め上げる時刻が訪れる。
 崔尚宮付きの女官守(ス)花(ファ)芳(バン)は早くも襲ってきた睡魔と闘いながら、殿舎の長い廊下を歩いていた。まだまだ、仕事は山のように残っている。今夜、花芳は崔尚宮に付き従って、宿直(とのい)することになっていた。宿直とは、夜勤―平たくいえば寝ずの番をして夜の警護に当たるということである。
―これじゃ、朝まで眠れそうにもないわね。
 当たり前といえば当たり前だが、花芳はまだ二十歳、幾ら眠っても足りることがないほど眠たい。
 花芳が小さな欠伸を噛み殺したまさにその時、物陰からヌッと誰かが顔を覗かせた。
「キャッ」
 花芳が小さな悲鳴を上げる。
 まさか、幽霊?
 それでなくとも、宮殿には政争、或いは謀で無念の死を遂げた幾多もの亡霊、死霊が成仏することなくさまよい歩き、その怨念は宮殿の壮麗な瓦の数よりも降り積もっているという。
 花芳が怖々ともう一度、物陰を見ると、どこかで見たことのある顔が覗いていた。
「あなた―」
 この太り肉(じし)の女官は、あまりに印象が強いため、直接話したことはなかったけれど、よく憶えていた。確か、大妃殿に詰める女官だ。
「あ、あ、あのっ」
 女官がいきなり花芳の腕を掴んだ。
「何をするの?」
「と、とにかく。わ、私と来て」
 どもり癖のあるらしい女官は到底女とは思えない力で否応なく花芳の手を引っ張ってゆく。
「ねえ? 一体、何がどうしたっていうのよ」
 花芳が半ば引きずられるようにしてその女官に付いてゆきながら訊くと、彼女が真顔で言った。
「たっ、たっ、大変なのよ。崔尚宮さまのところの、い、いっ、臨女官が。わ、私、何度も誰かに言おうとしたんだ、けど」
「臨女官―?」
 花芳が小首を傾げた。
 そういえば、臨女官の姿を丸半日見かけていない。十年前、臨女官が入宮した当時、花芳もまたその少し前に入宮したばかりだった。その頃、彼女はまだ十歳の少女にすぎず、六つ年上だという臨女官は実の姉のように優しく花芳を可愛がってくれた。
 親許が恋しくて物陰で泣いていた花芳を抱きしめ、泣き止むまでずっと背を撫でてくれた。彼女は、そのときのことをいまだに忘れてはいない。
 臨女官が十年ぶりに再入宮してきたときも、誰もがそっぽを向いた中で、花芳だけは臨女官に臆せず接した一人だった。
 後宮女官にとって、国王の眼に止まり、その寵愛を受けることは最大の栄誉であり、夢でもある。臨女官が国王殿下のお気に入りで―一部では既に夜伽を務め、寵愛を受けているという噂もある―、無断で出宮したことを咎められないばかりか、王自らの御意で莉彩を再入宮させたという事実に対して、他の女官たちは少なからず憤りを憶えていた。
 その中にはむろんのこと、玉の輿に乗った臨女官に対しての嫉妬心が大いにある。
 まあ、花芳だって、面白い話ではない。羨ましくないといえば、嘘になる。しかし、国王に見初められるのは確率的にいえば、砂だらけの砂丘の中から、たったひと粒の砂金を見つけるよりも更に低い。つまり、殆ど可能性はないに等しい。
 同性である花芳が見ても、臨女官は綺麗だ。膚だって透き通ってなめらかだし、眼が何とも印象的だ。濡れたようにきらきらと輝いていて、じっと見ていると、瞳の奥に引き込まれてしまいそう。
 何より、花芳は臨女官の人柄を好ましいと思う。美貌にも拘わらず、それを少しも鼻にかけず、国王殿下のお手付き女官だと(噂の真偽のほどは知らないが)囁かれていても、驕ったところもないし、身分が低かったり、年端がゆかない者には優しい。誰もが厭がるような面倒な仕事でも厭な顔一つせずに進んで引き受ける。
 臨女官よりも美人は後宮には少なくはないけれど、彼女が誰よりも美しく見えるのは、きっとその気性の良さによるものだろう。家が貧しくて、金と口減らしのために女官に上げられたようなものだが、父が亡くなるまでは、花芳の家もその日暮らしながら、何とかやっていた。
 辻芸人をしていた父が病で亡くなり、幼子三人を抱えて暮らしに困った母は、やむなく上の花芳を女官にしたのだ。娘が女官になれば、家族には決まった俸給が支給される。
 花芳はそのために、〝人知れず咲いて散る花〟とその宿命を謳われる女官になった。生涯誰にも嫁がず、娘盛りを誰にも嫁ぐことなく過ごし、空しく終わる一生を運命づけられることになった。
 そして、他の女官も皆、大なり小なり似た理由で入宮したことに変わりない。だからこそ、女官は皆、夢と野心を抱く。国王の眼に止まる以外に、〝人知れず咲いて散る花〟の宿命を変えることはできないからだ。
 亡くなった父が生前、よく言っていた。
―花芳、女の値打ちは姿かたちじゃねえ。女は眉目より心映えってもんが大切なのさ。お前も良い男を捕まえたかったら、そのことをよおく憶えておくんだな。妓生(キーセン)なら、男にその場限り愉しく過ごさせてれば良いが、女房になるのなら、それだけじゃ駄目だ。一緒にいて寛げる女が、女房にするにゃア、いちばん良いんだ。少しくらい、眼や鼻がひん曲がってても、心のきれえな女の方が良い。
 多分、臨女官は、父の言っていた〝一緒にいて寛げる女〟なのだろう。その心映えの良さが内面から光り輝き、臨女官のまあまあ美人といった程度の容色をよりいっそう美しく見せている。
 とにかく、誰が何と言おうと、花芳は臨女官の味方だと自負している。それに、もし仮に臨女官が国王殿下の寵愛を受けているという話が真実なら、臨女官と近づきになっておくのも悪くはない。臨女官が将来、側室となり、位階を賜ったら、花芳も時めくお妃さまの侍女として幅をきかせることができる。
 ―と、花芳は、損得勘定もできる娘だった。
その臨女官が大変だと、この太っちょの女官は訴えている。
 今日の午後、花芳は臨女官の部屋を二度、覗いて見た。だが、彼女の姿は見当たらず、他でも見かけた憶えはない。
 昼間から自分の仕事を放り出すような人ではないことはよく判っている。少しだけ不審には思ったけれど、まさか臨女官の身に何かあったとまでは考えていなかった。けれど。
 迂闊だったかもしれないと、花芳は唇を噛む。
「ねえ、臨女官がどうしたっていうの? 彼女に何かあったっていうの」
 太った娘の胸倉を掴んで思いきり揺さぶりたい衝動を、花芳は必死に堪えた。
 彼女に付いて小走りに駆けながら、花芳の胸は妙な皆騒ぎに見舞われていた。
 南園の池まで来た時、突然、太った娘が立ち止まった。
「こっ、ここ」
 震えながら指さした方を何げなく見て、花芳はヒッと息を呑んだ。
 それは―さながら水死体のようだった。髪から服まで全身が水にぐっしょりと濡れ、顔色は全く血の気がなく、蝋のように白かった。
 唇は紫色に変色している。花芳は、この気の毒な溺死人をよく見ようと顔を更に近付け、思わず叫んだ。
「臨女官ッ」
 花芳は慌てて臨女官の顔にぐっと近づいた。かすかだが、確かに呼吸をしている。そのことを確認し、花芳はほうっと安堵の吐息を洩らした。