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約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ

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 そして、大概の場合、そういった予感は当たらなければ良いのに的中する。籤など引いて当たりが出るときには一向に閃かない予感が、悪いこと、不幸が降りかかってくるときに限って閃いて、その上、当たるのだ。
「あなたが崔尚宮にお仕えする臨莉彩ね?」
 念を押すように問われ、莉彩は頷いた。
 知らず知らずの中にじりじりと後ずさっていた莉彩が瞬時に身を翻して逃げようとすると、ささっと一人の女官が進み出て手を広げてゆく手を塞ぐ。
「逃げようたって、そうはいかないわ」
「別に逃げるつもりはないけど」
 と、この際、シラを切っておく。
 莉彩は眼にぐっと力を込め、居並ぶ女官たちを眺め渡した。
「一体、何のつもり? 私が何をしたっていうのかしら」
 こんなときには下手に出た方が必然的に弱い立場に追い込まれるので、敢えて肩肘張るつもりだった。
 実際、莉彩には、こんな風に突然言われもなしに取り囲まれ、尋問を受ける憶えはないのだ。
「あなた、五日前に、大妃殿の廊下拭きの当番だったでしょ」
 また別の小柄な女官が口を尖らせた。
「ええ、確かにそれはそのとおりだけれど、それがどうかしたの?」
 と、小柄な女官が傍らの太った丸顔の娘の肩を抱いて前へ押しやる。
「五日前にあなたが当番をサボったせいで、この子が孔(コン)尚宮さまにひどいお叱りを受けたのよ」
 五日前―といえば、淑妍が来た日で、確かに莉彩は大妃殿の拭き掃除をしなかった―というよりは、できなかった。
「確かにあれは私が悪いの。ちょっとした都合で決まった時間に行けなくて、私が行ったときには、もう誰かが済ませてくれていたんです。あなたが私の代わりにやってくれたのね。ごめんなさい、あのときは本当にありがとう」
 あっさりと謝った莉彩に、小柄な女官は鼻白み、太った女官は、おどおどとした表情で隣の小柄な女官を窺い見た。
 すると、それまで口を噤んでいた最初の女官がしゃしゃり出る。莉彩に名前を確認した、背の高い、ひょろりとした娘だ。
「謝れば、それで良いというものじゃないでしょう。あなたが時間になっても来なかったせいで、この娘(こ)は孔尚宮さまに一刻余りもお説教された挙げ句、罰として夕食も抜きだったのよ? 当番が来ないのなら、どうして、大妃殿で決まっている拭き掃除当番が早く代わりにしないんだって、えらくお冠だったわ」
「そう、だったの。本当にごめんさない。申し訳ないことをしたわ」
「あっ、も、もう、良いのよ」
 太った娘が紅い顔で首をぶんぶんと振ると、傍らの背の低い女官がちらりと睨む。
「良くはないでしょう。あれほど酷い目に遭ったのは誰のせいだと思ってるの。臨女官が自分勝手な都合で当番をサボったからなのよ」
 どうやら、この太った娘自身が莉彩に腹を立てているというよりは、他の女官たちが莉彩に腹いせをしたいがために口実として利用されているだけのようだ。
「で、でもっ。もう、あ、謝ってるんだし、済んだことだから」
 少しどもり気味の癖があるのだろうか。一見、鈍重そうに見えるが、鼻の上にソバカスが散ったその顔は愛敬があり、人の好さそうな娘である。
「大体、あなたって、少し良い気になりすぎなんじゃない? 主上(サンガンマーマ)が幾らあなたをお気に入りだからって、あなたはまだ正式な後宮にもなっていないんでしょ」
「そうよ、見かけだけが綺麗で美人でも、頭の中が空っぽじゃ、殿下だってすぐに飽きておしまいになるわ。だから、お手付きのままで、後宮どころか尚宮にもなれないのよ」
 中心人物の二人がこれ見よがしに言うのに、他の娘たちの間でもどよめきが漣のようにひろがる。
 役付きの尚宮は原則として国王の夜伽を務めることはないが(もっとも、役付きとなると、殆どが勤続何十年という年配のベテラン女官ばかりで、手の付きようがない)、一般の女官がお手つきとなった場合、一般の尚宮と区別して〝承恩尚宮〟、〝特別尚宮〟と呼ばれることがあった。むろん、この場合、尚宮とは特別待遇を与えるための呼称にすぎず、実質的に何の任務が課せられるわけではない。この名称を与えられた尚宮は、概して後宮―つまり正式な側室になれることはなかった。
 好き勝手なことを言い合っている娘たちを尻目に、莉彩は思いきり肩をすくめた。
「お生憎さま、私は殿下のお手つき女官なんかじゃありません! 言いたいことがそれだけなら、私はもう行くわ。あなたたちほど、暇じゃないから」
 莉彩のそんな態度が、娘たちの妬みとやっかみに火を注いだらしい。
「言ったわねぇ、何て生意気なんでしょう」
「こんな業腹な女、見たこともない」
 ひょろ長いのと小さいのが二人、怒り心頭に発した様子で、物凄い形相で飛びかかってきた。
 あっと叫ぶ間もなく、莉彩は二人に両側から腕を掴まれ、傍の池に投げ込まれていた。
 情けない話ではあるが、莉彩は泳げない。せいぜいが十メートルほどバタ足で進む程度のもので、小学校低学年並である。
 更に、彼女にとって不幸なことに、巨大な池は予想外に深かった。しばらく水面でもがいていた莉彩を眺め、女官二人は、やれ良い気味だとはしゃいでいた。
 他の女官たちもこれで溜飲が下がったと愉快そうに高みの見物ときている者もいるし、中には不安げに顔を見交わす者たちも少数ではあるけれど、いた。しかし、ほどなく莉彩の姿が水面下に隠れて、完全に見えなくなってしまうに及んで、中心になっていた二人は蒼白になった。
「どうしよう?」
「大丈夫よ、きっと、放っておいたって、一人で帰ってくるわよ。あれほど向こう見ずで負けん気の強い娘だもの」
 二人は口々に言い合い、後を振り返ろうともせずに脱兎のごとく立ち去った。その後を追うように数人の女官たちも素早く走っていなくなる。
「あ、あっ」
 残された太った女官は顔色を変えて、おろおろするばかりだ。誰かに知らせにゆこうかという機転は働かないのか、それとも、知らせて自分までもが巻き添えを食らうのが怖いのか―。
 彼女は、なおもしばらくその場で狼狽えていたが、やがて、怖いものから眼を背けるようにして、走り去った。
 後にはただ池の面を静かに風が渡っていくばかりで、水面にはさざ波一つ立っていなかった。

 一方、それから更に四半刻ほどして、莉彩は最後の気力を振り絞って陸(おか)に這い上がった。女官たちがいなくなった後、一旦は沈みかけていた莉彩は意識を取り戻し、死に物狂いで何とか汀まで泳いできたのだ。それは泳いだというよりは、夢中で手脚を動かして漸く辿り着いたという方が適切だった。ともかく、浮き上がった直後は手脚すら動かす力も残っておらず、ただぷかぷかと仰向けに水面に浮いているだけの有様だった。
 しかし、それで息をしながら力が戻るのをを待ち、戻ったわずかな力を振り絞って陸まで辿り着いたのだ。
 溺れ死ななかったのは、悪運が強かったのかもしれない。などと、朦朧とした頭で考えつつ、莉彩は、その場に倒れた伏したままの格好で再びスウっと意識を失った。
―殿下、莉彩はここにいます。殿下、どうか、助けにきて下さい。
 莉彩は恋しい男の優しい笑顔を思い浮かべながら、暗い暗い底なしの沼へと落ちていった。