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約束~リラの花の咲く頃に~・再会編Ⅱ

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 莉彩は井戸端で洗濯に精を出していた。十年前にやはり洗濯をしていた時、全自動洗濯機を現代から持ってきたらと想像したことがあったけれど、やはり文明の利器になれた身には、すべてが手作業というのは辛いものがある。
 一枚、一枚、棍棒のようなもので叩いて汚れを落としてゆくのは骨が折れる仕事だ。それでも、山のように積まれた洗濯物がすべて片付く頃には、何か清々しいような一仕事終えたような気分になっていた。
「―莉彩(イチェ)」
 ふいに頭上から懐かしい声が降ってきて、莉彩は顔を上げた。
「臨尚(イムサン)宮さま(グンマーマニィ)」
 臨淑妍(イムスクヨ)、現国王徳宗の乳母であり、かつて後宮においても尚宮として重きをなした女性である。
「しばらくでしたね。本当に久しぶりだこと」
 淑妍は既に六十近くにはなっているはずだが、その柔和な面立ちは若々しく、十年前と殆ど変わりないように見える。
「私の方こそ、ご無沙汰しておりました」
 莉彩が感慨を込めて言うと、淑妍は微笑む。
「私は信じていましたよ。あなたが必ず殿下の御許に戻ってくると」
 一体、淑妍が莉彩の事情をどれだけ知っているのか。莉彩自身は彼女に自分がタイムトラベラーであることを語ったことはない。しかし、淑妍はすべてを知っているようであった。
 淑妍は徳宗が誰よりも信頼する母にも等しい人なのだ。恐らくは王が淑妍に何もかも打ち明けているのではないかと莉彩は思っていた。淑妍の今の言葉は、それを何より物語っているようにも思える。
「先刻、ここに来る前に、殿下にもお眼にかかってきました。殿下がしきりに零しておいででしたよ。莉彩にあのような雑役婦のような仕事ばかりさせるのは我慢ならぬとぼやいておいででした。ですが、後宮女官には、またその掟があり、ましてや莉彩は新米同然の身ゆえ、当分は雑務ばかりをこなすのも致し方ございません、今しばらくはご辛抱あそばせと申し上げておきました」
 淑妍は涼やかな笑い声を立てながら、既に洗い終えた洗濯物を手に取った。
「私も手伝いましょう」
「滅相もありません。尚宮さまにそのようなことをして頂いては、今度は私が殿下に叱られます」
 莉彩が止めても、淑妍は笑って首を振る。
 手慣れた様子で洗濯物を張った綱に干してゆく。
「気にすることはありません。私だって、はるか昔はそなたのように、こうして洗濯物の山と日々、格闘していたのですもの。殿下のお気持ちはよく判ります。どなたも殿御は愛しい女に辛い仕事はさせたくはありませんものね。殿下が尚君長(提調尚宮)にひと声おかけになれば、そなたを下働きから内仕えに回すことは簡単なことです。けれど、そうすれば、そなたは他の女官たちから殿下のご寵愛を傘に着たと余計に悪しく誹られることになるでしょう。それは、そなたのためにはなりません。かえって妬みを買い、後宮に要らぬ敵を作るだけですからね」
 話している間も、淑妍は手際よく洗濯物を干していった。
 二人はしばらく無言で洗濯物を干すことに集中した。淑妍のお陰で、随分と手間が省け、直に洗い終えたものがすべて蒼空に翻った。
 清々しい五月の空に洗い立ての白衣が風になびく光景は何とも気持ちの良いものだ。
 莉彩がその光景をホッとひと息つきながら眺めていると、傍らに淑妍が並んだ。
「綺麗になりましたね」
「はい、尚宮さまのお陰で随分と速く片付きました」
 莉彩が礼を述べるのに、淑妍がフッと笑った。莉彩は一瞬、自分が何か妙なことを口走ったかと当惑する。
「洗濯物のことではありません。私が綺麗になったと言ったのは、そなたのことですよ」
 淑妍は莉彩を改めて見つめ、婉然と微笑した。
「しばらく見ぬ中(うち)に、随分と臈長けたこと。これなら殿下もお歓びでしょう」
 一人で納得したように頷く。そのやわらかな面には満足げな表情が浮かんでいる。
 何故か、莉彩はその時、違和感を憶えた。
 これまで自分が知る淑妍とは全く違う一面を見たような気がしたのである。では何がどう違うのかと問われたとしたら、上手く応えることはできなかったろう。しかし、明らかに何かが違っていた。
「少し時間が欲しいのですが、そなたの部屋に行きましょう」
「あの。洗濯が終わったら、今度は廊下を拭かなければならないのです」
 控えめに言うと、直属の上司である崔尚宮にはちゃんと話をしてあるからと淑妍が言う。ここで立ち話ができないほど大切な―或いは誰かに聞かれてはまずい内容なのかと咄嗟に思い、素直に淑妍の言葉に従った。
 部屋に戻ると、莉彩は手早くお茶を淹れた。
 他ならぬ淑妍から教わった、あの香草茶である。
 淑妍は、香草茶をひと口飲み、また満足げに微笑んだ。
「お茶の淹れ方も上達しました。私がそなたに教えることは、もう何もないようです」
「そんな―。私など、本当にまだまだ宮殿のしきたりもろくに知らない未熟者です」
 謙遜などではない。元々、この時代の人間ではなく、ましてやこの国の民でもない莉彩には、まだまだ未知のことが多すぎた。見かけだけは一応、後宮女官だが、内実は、ついひと月前まで二十一世紀に生きていた現代女性なのだから。
「そなたは聡明で、心映えも優れている。知らぬことは知っていけば良い。時が自ずと解決してくれることでしょう」
 淑妍は事もなげに言うと、莉彩を真っすぐに見つめる。
「今日、入宮したのは、そなたを訪ねるためです。是非、折り入って話したいことがあるのですよ」
「それは―」
 物問いたげな莉彩に、淑妍は頷いた。
「そなたを孫(ソン)大(テー)監(ガン)の養女にしようと考えているのです」
「私を孫大監の?」
 莉彩は愕きに言葉を失った。宮仕えをするに当たり、莉彩は臨尚宮の養女になっている。莉彩当人としては、それで十分だと思うのだが、何故、この上、面倒な手続きを踏んでまで孫大監の養女にならなければならないのか。
 莉彩の疑問を淑妍はすぐに読み取ったようだ。
「孫大監はこの十年間、左議政として朝廷においても重きをなされ、国王殿下の信頼も厚い重臣中の重臣です。若い頃から生き馬の眼を抜くといわれる宮廷で幾度もの政変を生き抜き、今日の地位と名声を勝ち得たお方ですから、そのような方の養女となって、そなたに損はないでしょう」
「ですが、私は既に臨尚宮さまの娘にして頂いております。何故、今になって、孫大監の養女になる必要があるのでしょうか。お言葉を返すようではありますが、一介の女官には分不相応ことではないかと思います」
 莉彩が控えめに自分の気持ちを述べると、淑妍は頷いて見せた。
「確かに、そなたの疑問はもっともですね。しかしながら、もし、そなたが一介の女官で終わるはずのない身だとすれば、どうしますか?」
 質問に質問で返され、莉彩は絶句した。
「尚宮さまの仰せの意味が判りかねます」
「莉彩、これから私がする話は、絶対に他言してはなりません」
 淑妍の表情が変わった。これまで一度として見たことのない―まるで別人のような、きりりとした隙のない顔だ。
 莉彩が知る限り、淑妍は柔和で穏やかな表情の似合う家庭的な雰囲気の女性だった。そういえば、いつか王が言っていた。