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虫のしらせ

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 帰りの道をどうやってもどったのか覚えてなかった。ドアを閉めた音で自分の部屋についたのを知った。
 汗をびっしりとかいている。何もかも洗い流したかった。べったり張り付くシャツを剥ぎ取ると勢いよくシャワーを浴びた。菅沼の匂いが染み付いている。石鹸で何度も洗う。苦しみもがく菅沼のみにくい顔が浮かんだ。
 忘れろ、忘れてしまえ。浴室の鏡を覗き込むと、死んだような自分の顔が写っていた。


 出社した和倉の耳に、久本が会社に退職願いを出したという話が飛び込んできた。
「田舎の家を継ぐらしい」
「おふくろさんを面倒見なければならないそうだ」
 仲間たちがざわめきあっている。
 久本は一年前に父を亡くし、母は九州で一人暮らしていた。確か妹が居たと聞いたが、その妹もどこかに嫁いでいる。
「久本は?」
 姿が見えない。
「何でも田舎に帰ったらしい」
「母親が病気らしいよ」
 誰も詳しい話は知らなかった。退職願は郵送されてきたと誰かが言った。
「あいつこの秋結婚する予定だったんじゃなかったけ、どうするんだろう?」
「向こうでやると違うか?」
「馬鹿言え、今どきの女があんな田舎にくっついていくわけがないだろうよ」
「あんな田舎って、お前久本の田舎知っているのか?」
「知らないけど、でもあいつが言っていた、JRの駅からバスで三十分、それも一時間一本もないような場所だってさ」
 仲間たちの勝手なおしゃべりを聞き流し、和倉は携帯電話を握った。久本を呼び出す、だが繋がらない。
「裕也、久本さん辞めるんだって?」
 昼前に智子が電話を寄越した。
「ああ、みたいだ」
「みたいだって、裕也知らなかったの?」
「何も聞いていない」
「へー、あんなに仲が良かったのに。でもどうして急に辞めるなんて言い出したのかしら」
「おふくろさんの面倒を見るらしい。なんでも病気になったそうだ」
「そうか大変だね……裕也のところは大丈夫?」
 大丈夫だとは言えない。和倉は長男で一人っ子。今は両親健在だが、いつどうなるかなど誰にも分からない。
「ねえ、今夜会わない?」
「いいけど、何かあるのか?」
「ただ何となく。それに色々話したいこともあるし」
 智子が言いたいのは分かっていた。
 結婚。
 付き合いだして三年、結婚の言葉を双方から出したことはないが、智子は三十になる。頭の中にはその二文字があるはず。
 和倉は「分かった」と受話器を下ろしたが気持ちは重く垂れ下がっていた。
「ねえ、久本さん結婚どうするんだろう?」
 会うなり智子が切り出した。
 やはりかと、和倉は沈んだ目で智子を見た。
「弘美さん、すごく楽しみにしていたから。田舎で式を挙げるのかな?」
「どうなんだろうな」
「式に呼ばれるんでしょう?」
「どうかな」
「裕也、私たちもそろそろいい頃じゃないかなと思うんだけど。裕也は?」
 言うべきだろうか。実は、と打ち明けたら智子はどうする。泣くか、喚くか、怒るか、DNAの結果は二日後、そんなものはどうでもいいように思えた。
 俺も久本みたいに姿を消したい。誰も知らない場所に逃げたい、和倉は久本が羨ましかった。

「参りましたね、どう理解すればいいでしょう?」
 石川が困惑した顔をしている。
 DNA検査で和倉の容疑が決定すると確信していたのが覆ってしまった。
「こうなったら本人の自白を引き出すしかないですね。なあにあいつがやったのに間違いないのですから」
「そうだな」
 下村も半分同調するように返事する。
 何故違った。現場に残された血液はどこか他の場所から運ばれたものなのか。そうでなければ他の人間があの現場にいたことになる。
 和倉以外の誰かが菅沼の部屋を訪ねた?
 いるとしたら、あの密告文を送った人間。さらに下村を不審がらせたのが封筒だった。伊予和紙で作られたやや小型の封筒、普通はビジネスなどで使わない。
「下村さん、課長に頼んでくださいよ。和倉をもう一度引っ張りましょう」
「いや、その前に調べたいことがある」
「え、何を?」
「封筒だよ」
「封筒って、あのタレコミがあった封筒ですか?」
「違う、十二万の金が入っていた封筒だよ。もしかしたらあの封筒に指紋が残っているかも知れない」
 石川は不思議そうな顔をしている。下村は、二つの封筒は同じものだと説明した。
「すると」
「あの十二万の金がもし菅沼が給料から別に取っておいたものではないとしたらどうなる」
 強請りの金。
 和倉はあの封筒を知らないと言った。嘘をついているとは思えなかった。いや、和倉が自分自身を追い込むようなことをするはずがない。だとすれば封筒の十二万は第三者から脅し取った金。そして第三者とはタレこみの手紙を書いた奴。
 すぐに結論は出た。
「下村さん、これはどういうことでしょうか?」
「おおよその推測はつくが、本人に聞いたほうが早いだろう」
 下村はビニール袋に入った封筒を持つと和倉の会社へと急いだ。
 

「浅川さん、どうです、すべてお話してもらえませんか?」
 テーブルの上にはDNAの検査結果が乗っていた。さらに封筒の内側に残された自分の指紋、浅川は言い逃れができないと頭を垂れた。
「あなたが菅沼さんを殺害された、それで間違いないですね?」
「はい、私がやりました」
「動機は、菅沼さんに脅迫されていたからですか?」
「あ!」と浅川が顔を上げた。
「やはりそうでしたか。しかしどうしてそんなことに」
 浅川は顔を歪めると、ポツリポツリと話し始めた。
五年前に菅沼が入社したのが始まりだった。高校卒業して二十年ぶりの再会、懐かしさよりも菅沼には恐怖だったようだ。そして四ヶ月前に淺川は菅沼を呼びつけた。
「まあ、そんなに硬くなるなよ」
「ええ」
「しかしお前がうちの会社に来るとはなあ」
 菅沼は曖昧な笑いを見せた。
「高校卒業してから何年になる、しかしお前はまったく変わらんなあ」
「君もあまり変わっていないよ」言葉を吐こうとして菅沼はそのまま飲み込んだ。言えばどんな形で帰ってくるか分からない。高校時代の三年間、嫌というほど痛い目に会っていた。余計な言葉は出すな、それが学んだことだった。
「実は、お前を呼んだのは、頼みたいことがあったんだ」
「僕に、ですか?」
「ああ、お前じゃなければ出来ないことだ」
「何をすれば?」
「ちょいと調べごとをして欲しい」
 内容を聞かされた菅沼は驚きを隠さなかった。
「僕では難しいと思いますけど」
「心配するな俺に案がある。そしてお前ならそれが出来る」
「でも……」
「なんだ、その顔。まさか嫌だと言うんじゃないだろうな」
「いえ、そんな」
「だろうな、もし逆らったらどうなるか分かっているだろう。それにこんなものもあるし」
 浅川は用意していた写真を出した。それを見た菅沼は息が止まった。
「写真ですか、どんな写真なんです?」
下村が言葉をはさんだ。
「それは……」
少し口ごもると、高校時代に仲間と菅沼のズボンを脱がし、携帯電話で撮ったものだと話した。 
「それで調べるとは何を?」
「和倉君の弱みです」
作品名:虫のしらせ 作家名:六出梨