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虫のしらせ

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「実は私どものほうにある情報が寄せられましてね、菅沼さんが殺害された夜にこちらの会社の方があの販売機で飲み物を買い、菅沼さんを訪ねられたと言うんです。信じたわけではありませんが、一応調べてみました。するとその通りでした。後はあなたの指紋ですが、頂いた名刺から採取させてもらいました」
 見られていた、それも俺が誰だか知っている奴に。冷たい汗が脇の下を流れている。額の汗が目にしみる。
 和倉は目をぬぐった。
「すみません、嘘をついて」
「じゃあ、菅沼さんをあの夜訪ねたことを認めますね?」
「はい、訪ねて行きました……でも僕じゃありません。僕は彼を殺していない。部屋のチャイムを押したけど、返事がなかったのでそのまま帰りました」
「嘘をつけ!」
 石川が怒鳴る。
「本当です、嘘はついていません」
「どうして訪ねられたのですか?」
「彼の持っているプレデターのフィギュアを譲って欲しいと頼むつもりでした」
 下村の目が動かない。信じてはいないと言っている、和倉は視線を外すことが出来なかった。
「ところで、この封筒に見覚えはありませんか?」
「さあ、見たことはないです」
「よく見てください」
 和倉はテーブルの上の白い封筒をまじまじと見つめたが、「知らない」と頭を振った。
「そうですか……じつは私はてっきりあなたが菅沼さんから何らかの脅迫を受けているのではないかと思ったのですが……違いますか?」
 鋭く刺すような下村の言葉が和倉の胸を圧迫した。机の下に隠れた和倉の指先が膝頭を固く握り締める。激しいストレスが和倉を押しつぶしそうになる。いっそ打ち明けてしまえば楽に、だが出てきた言葉は違っていた。
「脅しなんて、そんなのはありません」
「そうですか。ところで訪ねられた時刻は何時ごろでしたか?」
「多分八時頃だと思います」
「ではそのとき誰かにお会いになりませんでしたか?」
「人ですか、そう言えば、自動販売機を通り過ぎたあたりで誰かとすれ違いました。そうです間違いありません、あれは若い女性だったと思います」
「なるほど、では顔とか、その女性の特徴を覚えていますか?」
「顔ですか、顔は美人だったのは覚えているんですが……すみません思い出しません。チラッと見ただけですので」
「年齢や身長は?」
 二十代、身長は俺より十センチくらい低い、白い肌?
記憶が曖昧だった。はたしてそんな女性と会ったのかさえ不確かだ。
「二十代前半の百六十センチ程度、白い肌ですか。ところで和倉さん、血液はA型でしたね」
「はい」
 前の事情聴取でも聞かれていた。血液型がどうした、犯人がA型だと言うのか。和倉は現場に自分の体液や血液を残した記憶はない。
「現場に血痕が残っていたんですか?」
「いいや、争った形跡はありませんでした。毒殺ですからね」
「それじゃあ……」
「ではこれで歯茎の内側をこすっていただけますか」
 下村は和倉の問いを無視し、一本の麺棒を渡した。


「お帰りになって結構です。但し出張はやめてください。それと我々の目が光っていることを知っておいてください」
 下村の後ろから石川が睨んでいる。
 条件付きでの釈放、和倉は引きずる足で警察を後にした。
 DNAの検査結果が一週間後に出る。それまでの自由を貰っただけに過ぎない。いや自由などない、俺の後ろには絶えず警察の目が付いている。
覚えはないが体液を現場に残していたとなると、もう言い逃れは出来ない。和倉はあの夜のことを思い出した。
「金は?」
 菅沼は素麺をすすりながら言う。和倉は二十万の札束が入った封筒を差し出した。
 菅沼は箸を止めると、封筒の中を覗く。
「もうこれっきりにしてもらえないだろうか?」
「……」
「俺はもう充分に償ったと思っている」
 煮えくり返るような感情をかみ殺しながら和倉は言葉を吐いた。擦り切れた神経は血を滲ませている。
「それは俺が決める」
「しかし、預金は底をついた。これ以上は無理だ」
「あるさ、給料が」
 菅沼の目は貪欲さを剥き出しにしていた。食らいついて放そうとしないダニにも似ているその口、和倉が決断した瞬間だった。
「まあ全部とは言わん。俺も情け深いし、半分だな、半分寄越せ」
「それじゃ生活が出来ない」
「また出張費を誤魔化せよ、得意じゃないか」
 麺つゆで光る菅沼の唇が歪んで見える。
「うるさい蚊だな」
 濡れた唇を手のひらで拭うと菅沼は立ちあがった。
「今だ、今がチャンスだ」
 和倉の頭の奥で囁くものがあった。胸のポケットから小袋を取り出すと、素早く素麺のタレに青い結晶を落とした。こめかみの血管が破裂しそうまでに膨れ上がっている。指先が震えている。背中を見せていた菅沼が戻った。
「さあて、どこまで話したかな。そうだ給料の半分をよこすところまでだったな。後はボーナスのときに足りない分を補充してもらおうか」
「無茶な」
「無茶? 嫌だったら無理して払わなくてもいいんだぜ。それより会社辞めるか。もっともどこも行くところはないだろうけどね」
 勝ち誇ったように言った。
 菅沼の言う通りであった。たとえ今の会社を辞め他の会社を探そうとしても、どこにも行き場所はないだろう。菅沼が一言会社の金を横領したと公言すれば、興信所の身上調査に汚点がつく、どこも雇ってはくれない。たかが数千円のために馬鹿なことをしたと嘆いてもいまさら何の役に立たない。
「分かったら言う事を聞くんだな」
「どうしても駄目か?」
「聞くだけ無駄だ」
 素っ気無く言うと菅沼は箸を取り素麺を掬うとタレの入った器に素麺をつけた。
口の中が乾いている。つばがうまく飲み込めない。タレをつけた素麺を口にすればおしまいだ、菅沼は死ぬ。それでいいのか。和倉の頭の中を否定と肯定の言葉が氾濫していた。
 俺は殺人を犯そうとしている。どんな奴でも殺せば立派な殺人罪だ。止めなければ。今ならまだ間に合う。いや自業自得だ。こんなやつ死んで当たり前だ。生きていれば俺は一生こいつにまとわりつかれ金を吸い取られる。
「なんだ、ずいぶん怖い顔をしているな」
 菅沼は箸を止めると和倉を見た。
「嫌ならいつでも喋るぜ」
「いや、言うとおりにするよ」
「そのほうが利口だ」
 菅沼は満足そうに頷くと箸を動かした。
 大量の素麺を箸でつまむとタレにつけ一気に口の中に押し込む。ずるずるとすする音が地獄の叫びに聞こえる。
 効き目はすぐに起きた。突然箸とタレの入った器が手から転がり落ちた。顔色がピンクから気味悪いほどの青白いものに変わっている。咽喉元をかきむしるような仕草、声を出したいのだろうが、思うようにならない。椅子から転げ落ちるとのた打ち回っている。悶絶の瞬間とは、こんなものなのだろうか。
 恐怖が襲った。早く逃げろと頭が命令する。
 もし誰かが来たら全てが終ってしまう。考えがまとまらないまま和倉はテーブルの上に乗った二十万の入った封筒をポケットに突っ込み、コーラを掴んだ。
 他にはないか、自分の痕跡が残っているところは。椅子の背、ドアのノブ、手早くハンカチで拭いて部屋をでると、階段を駆け下りる。途中でコーラの空き缶はどぶ川に捨てた。すれ違った若い女が非難するような目を向けた。
作品名:虫のしらせ 作家名:六出梨