虫のしらせ
「いや、そんなことはありません。仕事だけの付き合いです」
「仕事だけの付き合いといいますと?」
「彼は経理ですから、我々の出張費の仮払いや、清算の伝票を処理していましたので、それを回すぐらいですか」
下村が頷く。
「では個人的なお話をされることはありませんでした?」
「ないですね」
「何か相談を受けたとか」
「それもないです」
「おかしいな、すると、以前お二人が会議室に入って暫らく出てこられなかったという事を聞いているんですが、何があったのでしょう?」
「いつ頃のことでしょう?」
「二度ほどあったと聞いています。三、四ヶ月くらいまえですか」
「……ああ、あれですか。思い出しました。あれは出張清算のやり方について蓮田くんからクレームがついたのです。出張手当の計算が間違っているのではないかと。それで会社規則を持ち出して暫らくやりあいました」
「二度とも、そうですか?」
「いや二度目は違います。たしか計算のミスじゃなかったかな」
それ以上下村は突っ込んでこなかった。納得したのかどうか顔から判断は出来ない。
「しかし、なんですなあ、会社内では菅沼さんには驚くほど友人と呼べる方がいなかったようですね」
和倉は曖昧に頷いた。
下村は最後に、「菅沼さんを恨んでいたような人をしりませんか」と聞いてきた。和倉は頭を振った。
「では野崎部長さんに声をかけて貰えますか、次の方をお願いしたいと……、あ、それと名刺を一枚頂けますか」
下村の言葉を背中に和倉は部屋を出た。
「終わった」
気付かなかったがシャツの下は汗が吹き出ていた。
安堵の気持ちが身体中の筋肉を弛緩させる。もっと厳しい取調べを受けると心配していたが、取り越し苦労であった。警察は何もつかんでいない、和倉は一つの峠を越えたと思った。
一枚の紙を下村や石川、他の刑事たちが覗き込んでいる。
「みんなどう思う」
係長の三隅だった。手には禁煙パイプを握っている。
「ガセ臭いですね。送り主の名前も出ていません」
「でも調べてみる価値はあるんじゃないですか」
誰かが言った。
「勿論そのつもりですぐに人を送った、すぐに結果は分かるだろう。しかしこのたれ込み、引っかからないか?」
「そうですね、まるで見ていたように書かれています」
下村が疑問を呈した。
三隅の机の上に置かれた手紙、A4のコピー用紙にワープロで印刷された文字が並んでいる。それは「菅沼のマンション傍の自動販売機の中のコインを調べれば、あの夜誰が菅沼を訪ねたかが分かる。会社の社員の指紋と一致するはずだ」と書かれていた。
「でも、たとえ見つかっても、それが十五日だと限定は出来んでしょう。前後もありえます」
誰かが言った。
「前はあり得ないな、というのも販売機が設置されたのは殺しがあった日だから」
事件から六日が経っている。コインはまだ回収されていなかった。
「容疑者の絞り込みには役立つかも知れませんね」
「そうなって欲しいけどね。それよりもしこれが事実だったら、この手紙を書いたやつは殺害のあった夜、現場にいたことになる。そしてこの密告者は容疑者と知り合い、つまりあの会社の者の可能性が高い」
「しかし、どうしてその時間に、そんな場所にいたのでしょうか。あの付近に住んでいる社員っていましたか?」
「いないな。もしかすると被害者と会う予定があったのかも知れないな」
「犯人の可能性もありますね」
「勿論、それも視野に入れる」
「手紙から指紋は出たんですか?」
「封筒からいくつかはね、でも役にたたんだろう」
三隅の言葉は、指紋は郵便関係者のものに限定されるだろうと暗示している。
密告者も用心している、自分の正体を知られたくないということだ、下村の目はA4のコピー用紙の横に置かれた封筒に注がれていた。
それから二日後、一人の男の指紋が回収されたコインの指紋と一致した。
「下村さん、意外でしたね」
「そうだな」
和倉の会社内での評価は高いと聞いていた。頭は切れ、営業成績もトップクラス、上司からも覚えがいい。友人も多くやがて課長に昇進するだろうと噂されていた。
かたや友人も居ず、誰からも相手にされなかった菅沼、二人の間に何があった。
殺された菅沼は何らかの手段で金を稼いでいた。違法なことに組していたのか、それとも自身が直接手を下していたのか。
それらの金は和倉と関係があるのか。あるとしたら、それは……下村の中で大きく膨らむものがあった。
「和倉さん、刑事さんが」
出張から戻った和倉を迎えたのはあの下村と石川二人の刑事だった。冷たいものが背筋を流れた。
「何でしょう?」
「大変恐れ入りますが、署まで御同道お願いできますか?」
「どうして僕が……」
「いえ大したことではありません。ちょっと確認して頂きたいことがありますので」
「あのう、どうしても行かなくてはいけませんか?」
言葉が震えそうになるのを和倉は懸命に堪えた。
「和倉、ふざけるな、お前……」
「石川、止めろ!」
下村の言葉が石川の言葉を遮った。
「すみませんね、なんせ若いもので、つい感情的になってしまって。それより和倉さん、なんとか私らと一緒に警察までお出で願えませんかね?」
柔らかそうな言葉の中に有無を言わせない鋭い音が宿った。逆らえない、和倉は頷くしかなかった。
狭く、四角い部屋は陰湿だった。上部に設けられた小窓から夏の日が部屋に溢れているる。それなのに真夏かと思えるほど手足が冷たい。和倉は息詰まりを覚えると、何度もタイの結び目を緩めた。
「和倉さん、もう一度お聞きしますけど、八月十五日の夜ですが、八時から九時の間どちらにいらっしゃいましたか?」
「前に言いましたように自分の部屋にいたと思います」
「それで、それを証明してくれる方はおられないとのことでしたね?」
「ええ一人住まいですから」
「それは残念ですね……ところで菅沼さんのお住まいはどこだかご存知ですよね?」
「いや、詳しくは知りません」
「おやそうでしたか」
下村は手帳をめくっている。
「東横線の都立大学という駅でおりて十分ほどのところですが、そちらの方に行かれたことはありませんか?」
「ありません」
「一度も?」
下村は確認するように強く言った。
「ええ」
「間違いないですか?」
念を押す下村の質問は和倉を不安の真っ只中へと追いやっていく。
「すると不思議ですね。どうしてあなたの指紋がついたコインがあの自動販売機に入っていたんでしょう」
石川の顔が奇妙な笑いを見せた。
俺の指紋?
「お分かりにならないようですね。菅沼さんのアパートのそばに自動販売機があるんですよ。あの販売機の中のコインを調べましたら、あなたの指紋のついたコインがみつかりました」
「あっ」
かろうじて和倉は言葉を飲み込んだが、顔色が変わるのを抑えることは出来なかった。
和倉自身も忘れてしまったような事実、これが警察の捜査能力というものなのか、和倉の中に恐怖が住み着く。
「驚かれたようですね」
「どうして……」