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虫のしらせ

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 死んだ菅沼の預金通帳にはそれらしい金額は載っていなかった。毎月振り込まれる給料は二十四万円ほど。そんな男が十五万もの家賃がするマンションにいる。どう考えても納得がいかない。だとすれば、何かのサイドビジネスでもやっていたのか。
「仏さんがあのマンションに引っ越したのは二カ月前だったな」
「ええ、その前は川崎の元住吉駅のそばにあるアパートでした」
「曙第一コーポ」新築の低層マンション、殺された菅沼が死んでいた部屋は2DK、ゆったりとした広さを持っている。
 駐車場には国産車ではあるが、黒塗りのそれなりの高級車が停まっている。
 あれだけの生活を維持するには、どれだけの金がかかる。会社から聞き出した彼の給料ではやっていけるとは思えない。
 部屋の中に残された私物からは、サイドビジネスに精を出している様子は見られなかった。
 十五万円の部屋代、敷金、礼金など合わせてかなりの金額が引越しにかかっているはず。だが、通帳を見てもそれらしい額の金が下ろされた形跡はない。
「会社では、親しい友人もいなかったみたいですね」
「というより、孤独だったのじゃないか」
「そうかも知れませんね。フィギュアに凝る奴って、意外と人づきあいが苦手な奴が多いんですよ……あ、僕は違いますよ」
 石川は慌てて言い足した。
「分かってるさ、石川には色んな友達がいるのを。女性も含めてだけど」
「あ、下川さん、あの噂は信用しないでください」
「いいじゃないか、ガールフレンドの二人や三人、まだ若いんだ当たり前だよ。それよりこれって結構金がかかるんだろう?」
「そうですね、物によっては数万から十万単位まであります」
「ふーん、馬鹿に出来んな」
「彼の持っていたものにも、いいのがありました」
「今回は石川の趣味で助けられたようなものだな。しかしよく見つけた、監識の連中も見つけられなかったのに」
「ついていました。でも犯人にものでしょうか?」
「その可能性が高いだろう、少なくとも被害者のものでないのは確かだ」
 見つかった血液はA型、殺された菅沼はB型だった。A型は日本人に一番多いと言われている。そして菅沼が働いていた会社の社員は百五十人に上る。そのうちの半数はA型に属しているだろう。
 まだ犯人は会社内の者だと決まったわけでもない。もしかしたら会社外で付き合っていた人間がいたかも知れない。
「やはり怨恨の線でしょうか?」
「物盗りでないのは確かだろう」
 机の引き出しから十二万円の金が入った封筒が見つかった。財布の中にも金が残っていた。金が目当ての殺しであれば大金を残していくのは考えられない。それに殺しの方法が毒殺では、押し込み強盗の犯行とも思えなかった。
 捜査会議では女性の話も出たが、携帯電話の履歴からも、部屋からもそれらしいものも見つかっていない。周りから集めた情報も女性の存在を示すようなものはなかった。
「それにしても無造作ですよね」
「ああ、そうだな」
「財布にも十万近く入っていたんですよ。奴さん一体何やっていたんでしょうか?」
 実家は新潟の山村にある農家、仕事をしている息子に送金するほど裕福だとは思えなかった。
 考えられるのはギャンブル、株、FX、後はなにがある。会社の公金横領、これはすぐに会社側が否定した。若しかしたら何かの事件に関わっていたのか。
 下村の頭には最後の可能性が一番大きく渦巻いていた。


 夏休みも終わり、明日からまた出張に出かけることになっている、その準備に追われているときだった。
「和倉さん、野崎部長がお呼びです、会議室にきてくださいって」
 新人の美登里が抑揚のない声で言った。
鼻筋の通った美人だがめったに感情を表にださず、笑った顔も見たことがない。こんな女は苦手だな、和倉はそう思うが、一部の男性社員には人気があった。
「会議室に?」
 ふっと不安が襲う。
 菅沼が喋った? ごまかしたのが部長に分かってしまった?
 いや、そんなはずはない。秘密を漏らしてしまえば、俺を脅迫出来なくなってしまう。あの銭ゲバがせっかくの金蔓を手放すとは思えなかった。
 では何故会議室に呼び出す、和倉は見えぬ恐怖に押し潰されながら会議室へと向かった。
 待っていたのは野崎と目つきの鋭い男が二人。すぐに呼び出された理由が分かった。
「和倉君忙しいところ悪いね。こちらは渋谷警察署の刑事さんで、下村さんと石川さんとおっしゃる。菅沼君の事件のことで皆に聞きたいことがあるそうだ」
 一つの不安が消え、別の不安が和倉の体を蝕む。
 慌てるなと言い聞かせるが、胃がせりあがり動悸が激しくなるのが分かった。
「すみませんね、お仕事中に」
「いえ」
「じゃあ私はこれで」
 あらかじめ打ち合わせていたのか野崎が部屋を出ていく。
 目の前の男、下村はがっちりとした身体をしている。柔道でもやっているのだろう。短く刈られた頭につぶれた耳がついている。ブルドックを思い出させる。
「和倉さんは営業でしたね。こちらの会社は長いのですか?」
 若い刑事の石川が手帳をだして鉛筆を握っている。
「いや、この会社は途中入社ですので」
「ほう、そうでしたか。それにしては大したものですね」
 下村は和倉の会社での評判を褒めた。
「やはりあちこちに出張されるんでしょうね?」
「ええ、そうですね。明日からも出張に出ることになっています」
「出張は多いんですか?」
 どうでもいいような話が続いている。これが警察の事情聴取のやり方なのか。それともさりげない話をしながら、相手の出方を見るつもりなのか、和倉は注意深く言葉を選んだ。
「月のうちの半分くらいは出ています」
「ほう、そんなに。では自宅に戻って寝ることは少ないということですか。自宅は確か永福町だと思いましたが、あそこを走っている電車は……」
「はい、井の頭線です」
「すると、東横線は利用されることはないですね」
「そうですね。あまり利用することは」
「成程。ところで、和倉さんは菅沼さんと仲が良かったと聞いているんですが、親しくされていたんですか?」
 核心に触れてきたと和倉はつばを飲み込んだ。すでに恋人の智子から話を聞いている。警察は菅沼と同じ経理課の人間に事情聴取をしていた。
「裕也、菅沼さんとは仲が良かったの?」
「俺が、どうして?」
「陽子が警察に訊かれて、つい喋ってしまったみたい」
「警察に?」
「しつこく聞かれたんだって。菅沼さんと仲の良かった友人とか、あるいは仲たがいしているような人とか。知らないといってもなかなか離してくれなくて、何度も何度も同じ質問をされ、思わずそんな話をしたみたい」
 余計なことをと和倉は舌打ちをした。
「菅沼さんと何度か会議室にこもったことなかった?」
 あっと口から出そうになる。菅沼に誘われ、二度ほど会議室で話をしていた。あれを陽子は見ていたのだ。
「それに、菅沼さんが裕也を見るときいつも笑ったような顔をしていたって」
「気のせいだろう」
 気のせいでないのは分かっていた。明らかにあいつは俺を見下していた。その視線を遠くからぶつけてくる、他人の目にも異常に思えたかもしれない。
 和倉はゆっくりと息を吸うと、余裕の笑いを見せる。
作品名:虫のしらせ 作家名:六出梨