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虫のしらせ

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「勘違いをしないでください。マーケティング理論は個人の経験や個性を否定するものではないのです。会社は力をどこに集約させるかの戦略を立てます。そして戦略を具体化するために戦術があり、さらに戦技があるのです。戦略とは右か左か、北か南か、大きな方向性を示します。戦術とは決まった方向に進めるための取る手段を言います。そしてその手段をスムーズに進めるために戦技が必要なのです。この戦技が我々営業マンの技術、つまり個人の能力となります」
 浅川は反論に詰まっていた。
「戦略を立てず営業マンが勝手にバラバラに動けば力が分散されてしまいます。分散された力は弱いものです。こうした戦略や戦術を決め、効率的に進めるためにマーケティングが必要なのです」
 やり込められた淺川は不快感を露にしていた。
 和倉は会議を終えると快い疲労を覚えた。すべてが順調に思い通りに進んでいる。営業の仲間たちからは「課長の椅子が見えたな」などとからかわれる。悪い気はしない。
 一人だけ「いい気になるなよ」と憎々しい目を向ける者がいる。
 無理もない、和倉が社長に目をかけられる前には、浅川が次の課長だろうと言われていた。年齢は三十八歳、和倉より四つ上だった。
 ブラインドが引かれる、やや西に傾き出した茜色の日の光が会議室に溢れる。社長の加宮と部長の向田が部屋を出ると、和倉がそのあとに続く。
「今にほえ面かくな」
 浅川が追い越しざまに呟いた。
 またか、と思いながらも、どこか浅川の態度に違和感を覚えた。
「なんだ、また何か言われたのか?」
「いや、何でもない」
「気にすんな、所詮は負け犬の遠吠えだ。誰もあいつの味方をする奴はいない。あいつは人形でも集めていればいいんだ」
 気にするつもりはない。和倉は営業力でも、マーケティングの理論や企画力でも浅川に負けるとは思っていなかった。
 自分の席に戻ると、メモが机に貼られている。
「経理の菅沼さんが電話を欲しいそうです」と書かれていた。
 菅沼?
 人の顔を窺うように見上げる目、むくんだ顔にまん丸のメガネ、脂ぎった厚い唇は異常に赤い。空気に紛れ込んでしまったような存在感のない男だった。
 和倉はメモを屑かごに放り込んだ。
「行くか?」
 同僚に久本が飲みに誘ったのは六時を過ぎたころだった。残りの仕事を手早く片付けると久本と連れ立った。
「あのう、和倉君」
 声のほうに振り向くと菅沼が立っていた。
「何? ……ああ、そうか忘れていた、なんか用?」
「ちょっと話があるんだけど」
「今じゃないとまずいの?」
「出来れば早いほうがいいと思う。ちょっと二人だけで話しをしたいんだが」
「俺、先に行っていようか?」
 久本が気を利かせる。それを和倉は止めた。
「いや、すぐに終わる。じゃあ話を聞こうか、手短に頼むよ」
 和倉は菅沼を少し離れた場所へと誘った。
「それで、用って?」
「これなんだけど、間違いないのかなあ?」
 菅沼の手には先月出張した旅費の清算書が握られていた。和倉はどういうことだと菅沼を見た。
「いや、このタクシーの料金だけど、違うんじゃないのかな」
 領収書を数枚ひらひらさせている。その様子はいつもの内気な菅沼の態度とかけ離れている。
 和倉は顔色が変わるのを自覚した。この男は気付いている、俺が料金をごまかしたのを。理由を考える余裕はなかった。
「今日は君も忙しいみたいだから、明日話をしようよ、いいだろう?」
 いやとは言えない。
 黙っている和倉に、「じゃあ明日」と目じりを下げると菅沼は背中を見せた。
「あいつ何だって?」
「いや、何でもない」
「あの男、気をつけたほうが。いい油断ならんぞ」
「え?」と顔を向けると、
「いや、何を考えているか分からんような奴って、一皮剥くと危ない奴が多いって言うからな。それに俺はあいつが好きになれん」
 と、久本が吐きだすように言った。
 他の同僚も酒場に現れ、飲み会は盛り上がったが、どれだけ酒を飲んだのか、何を話したのか、和倉は何も覚えていなかった。
 翌日の昼飯時、鰻屋の二階、客はまばらだった。
 和倉は部屋の片隅で菅沼と面と向かって座っている。甘く香ばしい匂いも今日は食欲をそそらない。重苦しい話が続く中で菅沼が囁いた。
「君次第だけど」
 俺次第?
 分からないと言う顔をしている和倉に、
「そう、僕はどっちでもいいんだ。どうせ出て行くのは会社の金だし、別に僕が損するわけでもないしね」と菅沼が醒めた目を向ける。
「じゃあ、黙っていてくれるのか?」
「そう、だから君次第だって言っているじゃないか」
「本当か、有難う、助かるよ。もう二度とこんな馬鹿なことはしない、それに君のことも一生恩にきるから、この通りだ」
 安堵感が和倉の身体から力を抜けさせる。天恵だと和倉は深く頭を下げた。
「そんなこと、どうでもいいんだ」
「え?」
「だってさ、君のことを会社に訴えたところで僕はなんの得もしない。それより、ここは二人が得することを考えたほうがいいんじゃないか」
「と、言うと?」
「僕が黙っていれば君は会社を辞めずにすむ。そうすれば課長の椅子も手にいるかもしれないじゃないか。ずいぶんと社長に目をかけて貰っているみたいだし。そして僕は欲しいものを手に入れる」
「何だ」と見詰めると、
 菅沼は「これだよ」と親指と人差し指で丸をつくると、和倉に見せた。
「金を?」
「ああ、夕べ色々と考えたんだけど、そのくらいは欲かいてもいいんじゃないかなと思ったんだ」
 和倉は答えることが出来なかった。
「それにね、僕は今のところから引越ししたいんだ。なんせ今いる部屋は狭くて暗くて汚いしね。それに好きなフィギュアも飾れない。でもそれには金が掛かる。ほら敷金や権利金などでずいぶんと必要だろう」
 菅沼は笑っている。なんと卑しい顔だ。
 黙っていて欲しいのなら金を出せと要求している。脅迫、目の前の男は俺を脅迫をしている。
 菅沼の正体を知らされた気がした。目立たず、黙って金勘定をしているだけの男だと思っていたが、とんでもない。おとなしかったのは甘い汁を吸える機会を窺がっていただけに過ぎない。久本の言うとおりだ。
「いくら」という言葉を飲み込んだ。
 一度相手の要求に屈すれば、後は際限なく続くだろう。
「一回きりにしてくれないか?」
「和倉君、君って会社で言われているほど利口じゃないな。僕に要求を出せる立場にないことくらい分かっているんだろう」
 自分の優位性を菅沼はあけすけにひけらかした。
 五十万円を用意しろと告げると、「昼飯代、頼むよ」と菅沼は立ちあがった。
「悪いね」
 背中が笑っている。和倉は声を張りあげてその背中を突き飛ばしたい思いに駆られた。


 菅沼の遺体が発見されたのは夜中の十一時、隣の住人が車を駐車場に停めようとしたが、菅沼の車が邪魔をしており、部屋を訪ねると床に倒れていた。
「下村さんどういうことでしょうか?」
「宝くじでも当たったか」
「でも、そうだったら、普通は現ナマで受け取ることはないでしょう」
 石川の言う通りだ。宝くじの高額当選の場合は、普通は一度銀行の預金口座に入れるはず。もっとも百万や二百万位だったらどうかは、当たったことがないから下村にも分からない。
作品名:虫のしらせ 作家名:六出梨