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虫のしらせ

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 炭火がはじける音がした。
 酒屋の店先に下がった誘蛾灯、虫が群れて集まっている。熱源に触れバシバシと小刻みに空気が震える。
 人影のない通りを思い出したように車がすごいスピードで通り過ぎる。横には幅二メートル程のどぶ川が流れている。闇で見えないが生活廃棄物で溢れた川が人間の身勝手さを教えているのを知っている。川から立ち上るメタンガスの匂いは粘りつくような湿気と一緒になって身体をなぶる。染み付いた臭いを汗と一緒にそぎ落とすように、和倉は手にしたハンカチで顔を拭った。
 部屋の明かりが見える。あの部屋で醜い肉の塊りが俺を待ちわびている。
 今日で終わりにしなくては、神経は毛羽立ち擦り切れ、人格が壊れそうになる。後一歩、いや半歩でも踏み外してしまえば、狂気の世界に落ちるだろう。そのほうがいっそ楽かもしれないと和倉は思う。
 六十五キロあった体重も、五十八キロまで落ちている。逃げ出したい、だが逃げ出せないことも知っている。
 もし拒絶されたら……そのときは……和倉は手を胸のポケットに当てた。
 指先に触れるのは小さな小瓶。闇のインターネットでやっと手に入れたものだった。青い色の結晶、数グラムの量、わずか一万円の金で買えたことに驚いた。
耳かきの半分にも満たない量で充分の致死量になる。こいつが俺を苦しめる元凶を取り除いてくれる、だが踏み切るには躊躇いを覚えている。出来れば使わずに済ませたい。そのためにはあいつが「うん」と言えばいい。
 小説からの知識だと一瞬のうちで済むという。そうであって欲しい。悶え苦しみながら死ぬのを見るのは趣味じゃない。
 咽喉が渇きを覚えた、暑さだけのせいではない。闇に自動販売機の華やかな明かりが存在感を示す。今まで何度か来ているのに気付かなかった。
 百円玉を自動販売機に放り込んだ。赤色のボタンを押す。ガタンという音と共にコーラが落ちてきた。
 あいつは苛々しながら待っているかも知れない。待たせればいい、ささやかな抵抗だ。そのくらいしか出来ない自分が嫌になる。約束の時間より三十分近く遅れている。細い階段をゆっくりと上がった。
 階段入り口の「曙第一コーポ」、まだ新しく、作りもしゃれている。それなりの家賃がするだろう。ここにも俺の金が使われている。そう思うと怒りで側頭葉がきりっと痛む。
「菅沼」の名刺がドアにテープで止っている。インターフォンを押した。
「誰?」
「俺だ」
「開いてる」
 ドアを開けると冷たい風が足元にまつわりつく。
「遅いぞ、なにやってた。あとがつっかえているんだ」
「すまん」
「早くドアを閉めろよ、蚊が入るだろうが」
 玄関を入ると八畳ほどのダイニングキッチンになっている。大型冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、自動食器洗い機まで揃っていた。壁には飾り棚が取り付けられ、何体ものターミネーターやサムライガールズのフィギュアが飾ってある。どれもがまだ新しい。テーブルに腰掛け蓮田は素麺をすすっていた。
 正面から菅沼を眺める。太った身体にランニングシャツを着込み、下はパンツ一丁だ。他人の目を完全に無視している。
 なんと卑しい顔をしていやがる。丸々と脂ぎった顔の真ん中に申し訳程度の鼻。唇は厚く目は細い。図々しさと傲慢さを惜しげも無くひけらかしている。
 こんな奴に俺は……
 ごろっと角ばった憤怒の塊りが身体の中を転がる。
 四か月前だ、全てはあの時から始まった。
 ブラインドの隙間から幾条もの透明な日の光が差し込んでくる。会議室には男たちの熱気と笑いがむせかえり、春爛漫の匂いを漂わせていた。長方形の円卓を囲む男たちは全部で十五人、先月の売上実績が男たちの顔に出ている。
「来月もこの調子で頼むよ」
 社長の加宮も上機嫌になっている。
「では、新商品についての戦略をどうするか、和倉君から話してもらおうか」
 営業マンたちの視線が和倉の上に注がれた。
 かすかな高揚、和倉は書類を掴むとホワイトボードの前に立った。あがることはない、もう今回で五度目となる。
 以前は課長の高畑が戦略会議の進行係を受け持っていたが、身体を壊し長期療養に入っている。その後、大村、浅川、和倉の三人で持ち回りとなったが、三か月前に社長の提案で和倉が任されている。部長は居るが、会社創立時からの勤続というだけでその椅子をつかんだ男、ある種のお飾りに過ぎない。
「宮田君、頼む」
 和倉の言葉でパソコンが立ちあげられホワイトボードに画面が映しだされた。
「まずこれを見ていただきます」
 新製品の市場調査の結果が出ていた。調査数は五十件、ユーザーにサンプルを預け、実際に使用した感想を聞き出したものだ。
 調査項目は、使い勝手、重さ、長さ、パワー、スピード、色、デザインなどが良いか悪いかの二者択一となっている。
 この方法を和倉が取り入れようとしたときに、余りにも極端過ぎるのではと反対があった。
「今までのやり方を変える必要はないだろう」
「せめて良い、普通、悪いの三段階にしてはどうだろう」
「いや、五段階ぐらいに分けたほうが細かく分かる」
 和倉はそれらを一蹴した。
「評価段階を細かくしたら、中央に集まるというデータが出ています。過去のデータを見てもそれが言えます。これは日本人の多くが余計な摩擦は起こしたくないという、民族性によるものだと思われます」
 いくつかの実例を示すと多くは成程と賛成した。それでも反対する人物がいるのを知っている。嫌だったら堂々と反対意見をぶつければいい。それが出来ないのなら黙って従ってもらう、それが和倉の考えだった。
 学んだマーケティングの知識を生かし、今後の販売促進について話を進めていく。その基本となるのが4Pと呼ばれるものであった。
 プロダクト(製品)、プライス(価格)、プレイス(ユーザー市場)そしてプロモーション(宣伝、認知)の頭をとったPである。
 ユーザーが製品の品質、そして価格が魅力的かどうかを判断するとき、彼らの頭の中には知らず知らずのうちに他社の同等品が浮かんでいる。それらと比較し、優秀であるか、安いのかが決定される。
 市場調査の結果を判断する場合、特にこの点が重要で、ユーザーがどの商品を意識したのかを明らかにし自分たちの優位性を判断する必要がある。客のCSつまり満足度は比較の上で成り立っている。
 また、価格の設定も安くすればいいというものでもない。安価イコール低級品という考えが消費者にあるのも事実。価格はブランド力とターゲットとするユーザーの購買力を考慮し決められる。
 こうして、これらのPがひとつひとつ検討され今後の営業戦略へと練り上げられていく。
「理論と現場は違うだろう?」
 最初の頃は浅川がよく噛みついた。
「その通りです。理論で物が売れれば誰も苦労はしないし我々営業マンは要りません」
「だったら……」
作品名:虫のしらせ 作家名:六出梨