ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』
「なんでって、その下にはあの犬はいないじゃん。いみないよ、こんなの」
「……ちがうよ」
「ちがうくないよ」
「だからちがくないよ!」
遠くで井戸端会議をしていた主婦たちが、少女の放った癇癪に眼を向けた。
「オマエ、またあのひとたちからヘンなやつだっておもわれてるよ。いいかげんやめろよ、そういうの」
「ちがうよ! だってあの子はひとりぼっちだったんだよ? 儚とハッくんしかかなしんであげられないだよ? そんなのってないよ……かわいそうだよ。カタチだけでも──グスっ、残してあげようよ」
少女は涙を拭い木の棒を少年へとのばす。
「ぼくはべつに、かなしくなんてない」
「えっ」
ビクリと少女の肩が震える。
「ぼくはかなしくなんてない。だからそんなのなんのいみもない」
少女がわたそうとした棒は、少年の手をすり抜け、地面へ落ちた。
「かわいそうだって……思わないの?」
「おもわないね」
少年は踵を返し少女を置いて一人去っていった。
「そんなハッくんが一番────かわいそうなんだよ?」
その小さくか細い声を聞いていたのは、少年(ハツカ)ただ一人だった。
† † †
「これで!」
永久が居合を利用したチェーンソーの逆袈裟斬りで大神の脚を斜めに斬り上げた。
「どうだ!」
永久の背中に隠れていた唐鍔牧師が、執事の肩を踏み台に跳躍する。そのまま左手に握った真改にそっと右手を柄に添えて抜き放つ。まずは機先を制する抜きつけの横一文字、そこから振り抜きを止め上段に構えて降す縦一文字。さらに両斜めの袈裟斬りに、返す刀から激突の一刀。それを都合三組み、計一二の剣戟を叩き込む技は、抜刀術の基本中の基本にして剣道の〝前〟。夢(む)想(そう)神(しん)伝(でん)居(い)合(あい)で謂うところの〝初発刀〟だ。見事、と言う他ない精錬された抜き打ちだった。アウトロー気質の強い彼女がここまで基本に忠実な型を見せるのはかなり異質なことだ、が、しかしここで一番驚くべきことはこの技をすべて空中で抜き放っている点だ。本来は正座から始まり佇立して残心するまでの工程を、大神の脚のつけ根、胸、そして顔にかけて斬りつける様で表現したのだ。
が、彼女の表情は曇っていた。
「ちいいいぃぃぃぃ!」
まただ。唐鍔牧師の必殺の一太刀がどうしても届かない。大神のその象をも超える巨躯は迅雷の顕現である唐鍔牧師には止まっているも同然だった。だがその刃は、肉は断てても骨までは遠く及ばない。鎖帷子のように鎧の役目を担った灰色の毛が衝撃を殺し、辛うじて傷つけた身体もすぐに再生されてしまう。
取り立てて目立った攻撃方法もなく、動きも単調そのものだったが、底抜け体力と物量差を埋めるには如何ともし難い壁が如実に現れていた。
「つあぁぁ……このままじゃ量子凝縮で強化した刀身が折れるぞ」
「どうしますか?」傍らの永久が訊いた。
「こいつを使う」
唐鍔牧師は腰のあたりを一つ叩く。その眼と口の端が不敵に吊り上がる。
「〝一二姉妹〟……ですか?」
方や永久は緊張という糸の通った声音と眼差しで、唐鍔牧師の腰に巻かれているベルトを、純銀製の不気味な女たちの貌(ペルソナ)を見やった。
「できるんですか、発動条件最悪のこの状況下で」
「やるしかないだろ」
この確率共鳴場──もとい《後天性奇形大脳皮質(カルテジアン)》の中において、量子の振る舞いはすべてにおいて《アルジャーノン》側に優先される。量子や虚数を操り、通常空間では無敵の唐鍔牧師と永久だったが、この中では辛うじて肉体を維持し戦うのがやっとだった。
「くっ、伽藍堂(ガーランド)が言うことを聞かない。これ以上の長期戦は無理です」
そう言って永久は自分の掌を見つめる。その手はノイズにかすれ、半透明になりかかっていた。
「ああ、だからとっておき(ロイヤルストレートフラツシユ)をお見舞いしてやるのさ」
「でもあれの〝鋳(ちゆう)造(ぞう)〟には時間が。それに牧師(センセイ)の身体にだって負担が──ムグっ!?」
声を荒らげる永久の口に、唐鍔牧師は人差し指を軽く押し当て黙らせる。
「ああ、だから時間を稼いでくれ。一〇分──いや五分でいい。あの犬っころの遊び相手になってくれ。な~に、多少の無茶は承知の上ってな」唐鍔牧師はそう言って破顔し、「なっ、頼むよ」と愛嬌のある仕草で片眼を瞑った。
「ぷはっ──まったくずるい人だ。俺があなたに何も言えないと知っていてそんな無茶を言うんだ。けど何よりも、俺がその笑顔に滅法弱いって……知っていて、お願いするんだもの」
永久は陶酔した面差しで目元を蕩かせた。
「だったら自分のお口で言ってみな? いい子だから」
「了解(アーメン)!!」
「いい返事だ!」
すると二人の周囲に暗い影が落ちる。次の瞬間、大神の足が落ちた。
永久は前へ跳び、巨体が仇となってできた胴体下の死角に回り込んだ。逆に唐鍔牧師は羽織を怪鳥の翼のように翻しながら、大きく背面へ飛燕する。
彼女は着地すると腰に巻いていた一二姉妹から一つだけ、銀の乙女の貌を取り外した。するとそのまま身を低く屈め、羽織の裾で自らの顔を隠す。
「さあ、一仕事だ!」
大神の真下へと逃げ込んだ永久はヒルベルトをチェーンソー形態からスタンロッド形態へ変形させていた。しかしその形状は〝ロッド〟などと言うかわいい形容ではとても収まりのつかない凶暴な悪鬼の角だった。全長二メートルに及ぶ長大な槍なのだ。穂先は犀(さい)利(り)に尖り、バチバチと紫電を帯びている。
「火(ひ)花(ばな)放(ほう)電(でん)!」
永久は放つ、雷火をまとった槍を、大神の腹目がけて。
「──!」
躱された。あれだけ愚鈍だった大神が、ことここに至って永久の知覚でも捉えきれぬ速さで地を駆った。一足で一〇メートルを進み、そこで小さく楕円を描きながら方向転換して永久の方へ直進してくる。動きそのものは豪快で数の多い動作だったが、時間にすればそれこそ一瞬に等しかった。
「不味い!」
攻撃直後の永久はまだ体勢を整えきれずにいる。上空に構えた槍を下に降ろし迎え討つにも、また伽藍堂(ガーランド)を変形させるにも、その動作の数は三から五工程。間に合わない。
大神の大口が間近にまで迫る。
永久は眼を閉じなかった。自分が死するその瞬間まで抗いながら、受け入れながら〝そうあ(アー)れかし(メン)〟という言葉通りに生きたかったから。するとそんな彼の耳朶を、玲瓏な風鈴の音(ね)色(いろ)が撫でた。
大口の
真神の原に降る雪は
いたくな降りそ
家もあらなくに
永久の眼前まで迫っていた大神の開かれた口も、牙も、顔も胴体も脚もすべて。万葉集第八・一六三六舎人(とねりの)娘子(おとめ)作の一首が詠われ瞬間、氷塊に覆われ凍りついた。
『儂は確かに麦村ハッカを妬んでいた、恐れていた、そして感謝をしていた。だがな……』
永久は背後を振り返った。そこには黒かったアスファルトを白く覆う雪原を悠然と歩く狼の姿があった。
『人を恐れる番犬なぞ、駄犬だ!
何より獣を恐れる猟犬は畜生にも劣る腐った肉の塊よ!』
真神の足は永久の傍らで止まり、頭を下に項垂れる。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』 作家名:山本ペチカ