ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』
「亜鳥」
忘れもしない。網膜に焼きつき海馬に刻まれた少女、その名前を舌の上で転がせる。
『わからないのなら探して、あの子の本質を。知らないのなら識(し)って、三千歳儚という存在を』
「どう……やって、どうやってさ!」
ハッカは憤りをあらわに傍らの儚を指差した。
「だってこいつはこんなにも空っぽじゃないか────!!」
口にした直後、ハッカははっとした。空っぽだった自分(ぼく)は、亜鳥に手をさしのばされたから心を手に入れた、だったら。
「ぼくにも、儚が…………救えるの?」
その平坦なトーンで問うた言葉に、少女は静かに子供をさとすように頷き返した。
『ちょっとちょっと、いきなり現れてなにゼンブ持ってこうとしてるのかな~? あ~、ヤダヤダ、二流役者風情がボクの脚本と演出に横槍を入れるのは迷惑以外のナニモノでもないね。あ~あ、どうしよどうしよ、どう修正しよう』
不意に、ハッカの胸に違和感が去来する。先程まであった胸とのどの熱がある一点に凝縮していた。
それは胸のちょうど中心、胸の内側ではなく外側、胸骨の真ん中にあった。
「これは……」
螺子巻きだ。真鍮の螺子巻きが皮膚の上に貼り付き熱を帯びている。
『〝大聖堂の秘蹟(フルカネツリ・クリプテツクス)〟……聖堂、賢者の邸宅の謎を解き明かす鍵。あの〝オッカムの剃(かみ)刀(そり)〟とならぶ真理への方程式か』
そう言ったカレルレンの声からは、余裕と揶揄する調子が抜けていた。
ハッカは螺子巻きを首から外し、おもむろに自身の前へかざした。
「これで、いいの」
亜鳥は頷くと、そっと何かを持つように手を下の方へ置いた。するとそこへ鳥駕籠が現れる。ハッカの持つ螺子巻きと同じ真鍮でできていた。
鳥駕籠の中には黒い影の生き物がひそんでいる。
瞬間、ハッカは思い出した、亜鳥からもらった螺子巻きはこの鳥駕籠の形をしたハミングバードのゼンマイを回すためにあると。
入れた。ハッカは宙にたゆたうハミングバードに空いていた鍵穴へ、手にした螺子巻きの先を挿入した。
一(ひと)、二(ふた)、三(み)、四(よ)、五(いつ)、六(む)、七(なな)、八(や)、九(ここの)、十(たり)となりけりや
ギチギチという音を立てながら螺子を回すと、それに合わせて亜鳥が死んだ人間を甦らせるという祝詞(のりと)〝布(ふ)瑠(る)の言(こと)〟を唱え始める。
布(ふ)留(る)部(べ) 由良由良止(ゆらゆらと)布(ふ)留(る)部(べ)
カチリ。
ゼンマイが止まる。瞬間、真鍮の鳥駕籠がガラスのように砕け散った。その破片はキラキラと輝きながら空中で一瞬動きを止めると中心の黒い影に向かって集まり出す。
黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)
金属同士をこすり合わせた甲高い音。
そこには一羽の小鳥がいた。真鍮の羽根を一枚一枚まとい、背中に大きな螺子巻きを備えた機械仕掛けの小鳥だ。
ハッカが人差し指を出してやると小鳥はすぐにそれに止まった。
『デミアン、それがあなたの翼』
「──え」
とっさに顔を上げると、すでに少女の姿はなかった。
「デミアン……」
自分の口で一音一音噛みしめながら確かめる。
ハッカはおもむろに機械仕掛けの小鳥──デミアンに顔を近づける。
デミアンは啼く。背中の螺子巻きが緩く回転する。すると小鳥はハッカの唇に向かってクチバシで啄んだ。
「うん、わかった」
唇から滴る血を舐めながら、ハッカは頷く。
『麦村ハッカ……』
真神がハッカを心配する沈痛な面持ちと声で近寄ってくる。
「大丈夫。こいつはいいやつだよ」
ハッカは真神の頭を撫でる。
「ちょっと儚のところまで行ってくる」
それを聞いた真神は眼を瞑り、ハッカの足下まで深々と頭を下げた。
「どうか儚を頼むぅ……!」
「ああ、わかった」
そう言うと静かに目蓋を閉じ、そしてまた開けた。
黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)黐(ち)
一際大きく甲高い啼き声が木霊すると同時にデミアンは金属の翼を羽ばたかせた。その翼はみるみる膨張し、身体の何十倍にも広がりハッカをまるまる包んでしまった。
ハッカを抱えたデミアンの身体が輝き出す。するとそれは光そのものになって直上へ昇り、消えた。
† † †
そこは電車の中だった。
右手の窓一面に夕日が横たわっている。
悠久という路線を走り続けるローカル電車《へびつかい座ホットライン》そして《セカイの果て》だ。
ギシリと、床板が軋む。西日に照りつけられた横顔がいやに熱かった。今いる最後尾の車輌には誰もいないし何もない。ただ前の車輌との戸が半開きになっていた。ドアノブに手をかけ横滑りさせる、と。
がちゃり。
そこには女の子がいた。
夕暮れの住宅街。一〇歳過ぎの少女が声にならない声でむせび泣いていた。親にしかられて家から閉めだされたのか、アパートの前で寒そうな肌着だけの格好をしている。
まわりはいつも少女を腫れ物のように扱っていた。知遅れ、自閉症のきらいが強い少女には誰もかかわろうとせず、近寄らなかった。
「おい」
そんな少女に近づく孤影があった。
「ハ……くん」
小学校に入りたてくらいの色白肌(アルビノ)の少年だった。男の子はなんの躊躇いも衒いもなくおもむろに歩み寄り、少女へあるものを差し出した。
「ん」
そうして男の子が少女にわたしたのは灰色の毛をしたハスキー犬の子供だった。子犬は涙でぬれた少女の顔をペロペロ舐め回す。
「こ……こ、これなに?」
「ひろったから、おまえがそだてろ」
「え──」
男の子はそのまま子犬を少女へ投げやった。
「じゃあせわしろ」
そう言って、男の子は隣の部屋の扉に入り消える。
あとには少女と、少女の顔を舐め続ける子犬だけが残された。
「きみは……なにくんちゃん?」
訊かれた犬は首を傾げて止まったが、またすぐに少女を舐めだす。
「そうだね、おおかみさんだね」
ハッカはその様子を微動だにせず、それこそ瞬きも呼吸も忘れて見入っていた。
「儚……」
口からは無意識に少女の名前が零れ出ていた。
夕暮れのアパートが消え、再び黄昏の車中に移り変わる。
ハッカは次の車輌へ続く扉を開けた。
その先に広がっていたのはアパート近くにあった小さな公園だった。少女はすみで再びすすり泣いていた。ハッカはやおら歩み寄り、しゃがむ少女の前に立った。
彼女は穴を掘っていた。そこへあの少年もやってきた。
「なにしてんだ、オマエ」
「ほってるの」
「だからなんの」
「お墓」
「だれの」
「…………犬の」
「──!」
ハッカはジャリと砂を踏んだ。
「しんだのか?」
男の子その問いに少女は頭(かぶり)を振って応えた。
「わからない。でも……お父さんが保健所につれてったから、もしかしたら今ごろ……」
少女はそこで言い淀み、またシトシトと涙を流す。
「あ、そ」
言いながら、少年は少女の脇にあった墓石代わりとなる木の棒を蹴飛ばした。
「なんで……」
眼にいっぱいの涙をためて少女は少年を見上げて、心からの問いを投げる。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』 作家名:山本ペチカ