ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』
彼女がスーツの上に着ていた和服羽織は江戸末期の浮世絵師、一(いち)勇(ゆう)斎(さい)国(くに)芳(よし)が伊(だ)達(て)男(おとこ)金(こん)神(じん)長(ちよう)五(ご)郎(ろう)に着せた三つ眼の紅鬼が堂々と描かれた派手な羽織と、まったく寸分違わず同じものだった。
伊(だ)達(て)男(おとこ)気(き)性(そい)競(あう)
金神長五郎、歌舞伎でも人気の渡世人だ。彼女の趣味と矜持がうかがえる。
「ああ、こちとら伊達と酔狂だけで生きてんだ。傾(かぶ)いてなんぼ、ひょうげてなんぼの人生だ──てな!!」
裂帛!
今度は反撃に転じてきた大神が口をめいっぱい開けて襲いかかる。その上顎の先から下顎の先を結んだ長さは優に二メートルはあった。唐鍔牧師は、納刀してあった刀を再び居合斬りで抜きつけと同時に上段へ斬り上げた。
磊落!
さすがの大神も神速の気合で抜かれた初太刀に気圧された。知性のない獣に見えて、やつにも自己防衛本能はあるようだ。それはきっと三千歳儚が恐怖しているのだろう。これは三千歳の防衛本能が《後天性奇形大脳皮質(カルテジアン)》全体を使って拒絶してしることにはならないか。現に、量子凝縮能力と悪魔(ヒルベルト)でここまで侵入してきた唐鍔牧師と永久だったが、明らかに拒絶の風当たりが強くなっている。手足はもちろん身体全体が白黒のホワイトノイズが走り始めている。
「しゃらくさい!」
唐鍔牧師は八相の構えで走り出す。次いで永久が腰よりも低い姿勢で追従する。
怒涛!
大神と相対する刹那、唐鍔牧師は跳躍した。優に五メートルはある飛燕だ。
また永久は大神の顎の真下に立ち、チェーンソーを大きく背後にした脇構えの状態からエンジンを最高速度に回転させる。
「これでっ!」
零(ゼロ)から即座に限界(マツクス)へ。チェーンソーはアスファルトを割り、そのまま永久の前へくると反動を利用して下方から上方へ、身体ごと昇らせて斬り上げる。
チェストおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
八相の構え、もとい薩摩示現流〝とんぼの構え〟で振り出だしたるは電光石火の必殺剣──〝一の太刀〟。
永久のチェーンソーは下あごへ、
唐鍔牧師の一太刀は大神の顔面へ、
師弟の刃を上下に交えた挟撃が炸裂した。
愚(ぐ)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)婁(る)ぅぅぅぅ…………!!
大神の咆哮、いや苦悶の叫びが轟いた。
『今だ麦村ハッカ!』
「はっ!」
そうだ、と、ハッカは身を震わせた。
「そうだ麦村! それに犬っころ! 人生なんざたった一度きりの主演舞台だ。だったら魅せてやらなきゃな、役者が違うってことを!」
「はい!」
その言葉に押されて、ハッカが一歩踏み出すと同時に、生きた疾風となった真神が襟首を銜えて走り出す。
牙(が)唖(あ)唖(あ)唖(あ)唖(あ)唖(あ)唖(あ)唖(あ)!
「おっと、こっちを忘れんなよ」
ハッカに反応する大神に、唐鍔牧師は二の太刀をお見舞いする。
二人の先人に後押された少年と狼は少女の前へと到着した。
「儚……」
ハッカは両手を儚の頬へとのばした。それがひたと白い肌へ触れた、その時、
「冷たい」
という触感覚と同時に、あることを察した。それは鼻を儚の手に近づけていた真神も同様だった。
「いない」
『ああ、いない』
二人は静かに頷いた。
「ここに儚は……いない」
《アルジャーノン》となった儚の碧眼は、どこにも焦点など合っていない、どこまでも虚ろで、それこそ命のないガラス玉といっしょだった。それから彼女の口端からよだれが落ち、ハッカのその粘ついた液体を指に取った。
親指と人差し指の間で引いては縮めて見つめ続ける。
「おい、こいつをどこに隠した──カレルレン」
ハッカは視線を鋭く横へ滑らせる。そこにあるのは青いテレビ《カイロスの檻》。
『バカ言っちゃいけないよチミぃ~、彼女なら目の前にいるじゃないか。その歳でもうモウロクしたかい?』
道化は笑う、ただ知らぬ存ぜぬと。それに少年はわずかに柳眉を曲げた。
『そんな怖いカオしないでよ、ボクはなんにもウソは言っていないゼ? だってそうだろ、ここは現実でありながらそうでない場所、脳みそ(プランクスケール)の中だ。ここには彼女を形作るものすべてがそろっている。
なのにナゼ彼女が見えないか? 答えは至極カンタンだ。キミらは彼女の本質をなにも理解しようとはしていないからだ。
そこでそうやって立っている彼女のカタチをしたモノも、結局はキミらがそんなカタチであって欲しいという願いが大脳皮質の願望器官に反応して投影されているに過ぎない。
じゃあ人間(ヒト)の本質っていったいなんなんだろうね? 核心とも言っていい。ヒトを内側から形作るモノ。これこれこうでなきゃいけない自分、これこれこうあったから今の自分になってしまった原因。因果。
わかるかい? わからないだろう? そりゃそうさ、他者が他者を完全に理解するなんて不可能だからさ。ましてキミらは一つだって、これっぽっちだってわかっちゃいないから、だからなまじカタチなんてものにこだわろうとする。そうすればキミらはマンゾクするんだ。
おおっと、ボクは別にそれが悪いなんて言わないよ? 責めてないよ? だってそれがニンゲンってモノじゃないか。それがキミらの本質じゃないか。だからこそボクはキミらが一人きりの孤独でも強くいられるように手をかしてあげてるんじゃないか。
他人(ヒト)にとって他人(ヒト)のココロなんてモノは芥子粒と同義さ。あってないようなモノだよ。所詮はその程度だ。この世界に満ちているのは孤独と欺瞞と支配だ。
ところでキミたちは〝ヘルペンのカラス〟という思考パラドックスを知っているかい?
ああそうだ〝百匹目の猿現象〟でもいいや。これはエセ学者のライアル・ワトソンというブリテン人がだね──』
カレルレンの茫漠たる説明とうんちくはどこまでも続いた。それそのものに大した意味などなく、聞く価値などない、例えるなら住宅地を徘徊する廃品回収車や市議会議員選挙の立候補者が大言壮語と共にスピーカーで垂れ流す騒音のそれと同じだ。
ただ、それでもハッカの心の中に一つだけ、たった一つだが、それでも強く締めつけ棘を刺す〝一言(モノ)〟がふくまれていた。
──本質……、ぼくはいったいあいつのなにを知っているんだ。
胸が内側からジクジクと疼いた。痛痒くて、今までに経験したことのない未知の痛みだった。ドンドンと拳で何度も叩いた。それから爪を胸に食い込ませた。しかし駄目だった。それは外からどんなに痛みをあたえても紛らわすことができない〝苦痛(イタミ)〟だった。
もう今すぐシャツを引き裂いて胸を無茶苦茶に掻き毟りたかった。
『あの子を見つけて』
その時声が聞こえた。針の入った水晶を思わせる、小さいが芯の通った力強い声。
ハッカの眼の前に少女が佇んでいた。黒いセーラー服の上に羽織られたオレンジがかった朱色のチェスターコート。そして外套とそろいの色のキャスケット帽を被った出で立ち。周囲の空間同様に、その身体にはノイズが走り半透明に透けていた。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』 作家名:山本ペチカ